ちかんごっこ 作:greenback |
太田黒善治の住まいは、心沢駅から徒歩10分ほどの距離に建てられたマンションの702号室である。 1LDKの室内にはそれなりに凝ったインテリアとそれなりに新しい家電が並び、それなりに行き届いた掃除がなされている。窓際に置かれた鉢植えのポトスも瑞々しさを保っているし、本棚にはジャンルと作者名で分類された著書が整然と並んぶ。雨原幸はその様子を眺めて、意外そうにつぶやいた。 「へえ、けっこう綺麗にしてるんだね」 そう、男性の一人暮らしと聞いて一般に思い浮かぶイメージとその部屋の間には、いささかギャップがあるかもしれない。だが、世の中にはそういうタイプの人間もいるのだ。ひとりで部屋にこもる時間を至福とし、そのプライベートな空間をより快適に過ごせる環境へと作り上げていくことを好む者が。 「連れ込む彼女がいるとも思えないのにねえ」 この部屋の主――太田黒善治にとって、そんなことはどうでもよかった。異性…同性を問わず、他人を家に上げるということを、彼はほとんど想定していない。どこまでも太田黒自身のために作りあげられた部屋なのである。 だから。 「にしても、暑いなあ」 クーラーのリモコンの定位置が、いかに他人にとって分かりにくい場所であろうとも、特に不都合はなかったのだ。 「……あれ、ないや。どこだろう」 デスクトップパソコンの本体の上。知っていればなんてことのない場所だが、この部屋に今日初めてやってきた幸にはなかなか思いつけない。当の太田黒が不在である以上、必然的に部屋の中をあちこち物色することになり……そしてそれは、余計なものを見つけてしまうことにつながったりもする。 「ん? 何これ」 ベッドの下にひそやかに置かれた、黒っぽい木箱。ふつうに考えればリモコンの収納場所ではありえないのだが、見つけてしまったからには開けてみたいのが人情である。 「うわ」 頭のどこかで予想はしていた。そういったものを隠す場所としてはあまりにもお約束通りだったから。それでも、思わず小さく声を上げてしまう。 半裸の女性が扇情的なポーズでこちらを眺めている表紙。ひどいセンスのタイトル。安っぽい色でプリントされたキャッチコピー。 そう、それは男性の性欲を満足させる為だけに作られた映像ソフトである。存在することは知っていても、こうして実際に目にするのは幸にとって初めての経験だった。 「あーあ、あらあらまあ」 一本ずつ手にとって眺めながら、幸は呆れたような声を出す。嫌悪と軽蔑、そして若干の好奇心。どうせ部屋の中には他に誰もいないのだ。遠慮する必要はない。 「やだ、ブルーレイまで……高画質で何見てんだか」 ぶつぶつ言いながらパッケージを裏返し、解説に目を通す。 「うわ最低、痴漢の話だ。バカじゃないの? 電車の中でこんなことされて喜ぶ女なんているわけないじゃん……」 苦笑いを浮かべていた顔が、ふとこわばる。 「え?」 目が泳ぐ。額に浮かんだ汗をぬぐう。ごくりと唾を飲みこんで、ゆっくりと視線を下へ……自分の股間へと、持っていく。 そこには、洗いざらしたジーパンの上からでもはっきりと見て取れる突起があった。硬い生地に阻まれてまっすぐに立ち上がることができず、窮屈そうに身をよじってはいるものの、その正体は誰の目にも明らかだろう。 男性器。 それも充血し勃起しつつある、臨戦態勢のペニスだ。 「ひっ」 幸が声を上げる。 無理もないだろう。男性の逸物など、物心つくかつかないかの頃に風呂上がりの父親のものを見たきりである。それから十数年、どこか別の次元にあるような、現実味のない存在だったそれが今、自分の股間にぶら下がって自己主張している。ついさっきまで忘れていられたのは、たまたまそれがニュートラルな状態で所定の位置に納まっていてくれたからに過ぎない。 でも、もう違う。たとえ目をそらしても、股間からリアルタイムで伝わってくる圧迫感と疼痛を意識しないようにするのは、もはや不可能だ。 「あーもう! なんでこうなるのよ」 ”こう”なった理由はあまりにも明確である。ちらりと見ただけなのに、脳裏に張り付いて離れないAV女優の裸体。パッケージの煽り文句。胸が悪くなるようなそれらの刺激によって、欲望に……男の性欲に、火をつけられてしまったから。 いつの間にか、呼吸が荒くなっていることに気づく。鼓動を確認しようと心臓に手を当てて、いつもならそこにあるべき胸の膨らみが無いことを思い出す。なるべく考えないようにしていた、今の自分の身体――16歳の女子高生でなく、51歳のおじさんと入れ替わっている姿――を、否応無く実感させられる。 大学時代はラグビーでならしたとかいう筋肉が年月とともにだらしのない脂肪に溶けた、見苦しい体型。頭髪の寂しさとは対照的にやたらと濃く、ほとんど全身に分布する黒々とした体毛。油っぽくてらてら光る顔は、その造形や大きさも手伝って、自分や友人――10代の少女たちとは全く別種の生物のようだった。 幸は今、その異生物、太田黒善治その人になっているのである。 おぞけが背筋を走り抜け、思わずぶるりと身震いをする。 「だ、大丈夫、たった一日の我慢だもん。ううん、もう4時間は経ってるから、あと20時間……」 時給2万円。一回の「勤務」でほぼ50万円。平凡な女子高生の幸には、ちょっと実感が湧かないほどの額である。ほんの一日、身体を「貸す」だけ。布団でもひっかぶって寝てしまえば、そのくらい、あっと言う間に過ぎるはず――肉体交換をコーディネートする「ショップ」のスタッフにもそう言われたし、彼女だってそう思っていた。なのに。 嫌悪感とは裏腹に、股間の異物は大きさを増していく。意識の外に追いやろうとすればするほど、さっきのブルーレイが気になって仕方ない。こんなのおかしい。絶対おかしい。いくら一時的にこんな格好してるっていっても、あたしは女の子なんだから――! 「……」 部屋の中に沈黙が訪れた。近くを通る竿竹屋の呼び声がかすかに聞こえる。平和で退屈な、どこにでもあるような平日の午後。いつもだったらつまらない世界史の授業を受けながら、睡魔と必死に戦っている時間帯だ。でも、今日は違う。眠気なんて、ちっとも湧いてこない。 「……あたしは、女なんだから」 煙草と酒にやかれた中年男の声と、その台詞の内容は滑稽なほどほどに噛み合わない。 「お、女なんだから、別に見たっていいよね」 同性の裸を見たところで、どうということは無いはず。銭湯や温泉に行ったら、いくらでも目に入ってくる。だから、別に変なことじゃない――。 その理屈がどこかで大きく歪んでいることは、幸自身にも分かっていた。パッケージからディスクを取り出し、テレビとプレイヤーに電源を入れる。青く輝くディスクを挿入して、再生ボタンを押す。これらひとつひとつの動作を黙々とこなしながら、何度もやめようと思ったのだ。無理矢理にでもベッドに入って、羊を数えようとしたのである。 でも、駄目だった。肥大化を続ける股間から放たれる欲望があまりにも大きすぎて、どうにもコントロールができない。 そうだ。 太田黒さんがいけないんだ。 こんなもの見て興奮する変態だから、その身体にしみついた習慣があまりにも強靱だから、だからいけないんだ。だから。 だから。 「だから、あたしのせいじゃ、ない……」 蒸し暑いリビングの中央に置かれた大型プラズマディスプレイを食い入るように見つめながら、幸はごくりと唾を飲み込んだ。 * * * 「では、あちらの赤いランプの下でお待ち下さい」 「え? あ、はい」 いわゆる「喫茶店」ではなく、「コーヒーショップ」と呼ばれる類の店に入るのは、太田黒善治にとって初めての経験だった。注文にあたってもフラペチーノだのマキアートだの、トールやらショートやら耳慣れない単語が飛び交って、コーヒーひとつ頼むのにずいぶん骨が折れた。指示されたカウンターの前でようやく一息ついて、ちらりと窓に映っている自分の姿を見る。肩まで伸びた栗色の髪、瑞々しくつややかな肌を包む制服、くりくりした目が印象的な、端正すぎない顔立ち。どこから見ても、100%本物の女子高生である。 太田黒が雨原幸から心沢駅前の「ムーンバックス」に呼び出されたのは、身体を入れ替えて21時間後のことだった。「ボディリースプログラム」の規定上、残りの時間は約3時間といったところである。今までの自分とは全く異なる女子高生の身体と生活を心おきなく楽しんで、あとは桶袋駅西口の「ショップ」で身体を「返却」するだけ。いささか名残惜しくはあるが、夏のボーナスをすべてつぎ込んだだけの価値はあったと思っていた。 半年前にネットの片隅でこのプログラムの噂を目にした時の興奮を、太田黒は未だにはっきり覚えている。もちろんデマである可能性も考えたが、その書き込みが数時間後に消されてしまったことがかえって興味を引いた。保存しておいたスクリーンショットから彼なりに調べた結果、そこで行われているサービスが「本物」であると確信するに至り、喜び勇んで申し込みを行ったのである。 長い長い順番待ちの期間を終え、高鳴る胸を押さえきれずに「ショップ」に向かったのは昨日のこと。小さな雑居ビルの一室で身体を貸してくれる「スワップガール」――雨原幸との面通しを済ませ、分厚い契約書にサインを済ませれば、あとは夢にまで見た「儀式」の時間。安楽椅子に拘束ベルトのついたいかにもなマシンに座り、青いLEDが放射状に配置されたいかにもなヘッドセットを頭に取り付け、一瞬くらりと気が遠くなって……次に目覚めたとき、神田の意識は少女の肉体に宿っていた。 「どうでした? 私の身体」 コーヒーを受け取って席に戻ると、正面に座った幸がにこやかに話しかけてきた。もちろん「幸」とはいっても、その見た目は太田黒本来の――くたびれた中年男そのもの。我ながら不細工だなあ、といささか情けなくなりながら、太田黒は笑顔を返す。 「ああ、楽しかったよ」 「楽しかった? どんなふうに?」 ハニー抹茶フラペチーノとかいう珍妙な飲み物でのどを潤しながら、幸はたたみかける。 「ど、どんなふうにって……」 「えっちなことして?」 「!」 思わずコーヒーを吹き出しそうになった太田黒に、幸はこともなげに続けた。 「いいじゃないですか、ひとりえっちまではセーフだって契約書にも書いてあったでしょ?」 「そ、そうかもしれないけど……」 「してないんですか?」 「し、してないよ!」 事実である。興味は大いにあったのだが、情けないことに度胸が追いつかなかったのだ。おそるおそる胸を触ってみたりはしたが、それ以上のことは本当に何もしていない。 「へえ、そうなんだ。意外ですね」 「そうかい?」 「だって太田黒さん、変態じゃないですか」 「変態って……」 無邪気な顔でとんでもないことを言い出す幸に、太田黒は呆気にとられていた。桶袋のショップで挨拶した昨日のことを思い出す。あの時は大人しそうな子だと思ったんだが、第一印象っていうのはあてにならないもんだなあ。 「そ、そりゃまあ大金払ってこんなことしてるんだから、多少は普通とは違うかもしれないけど……」 「そうじゃなくて」 「え?」 「ベッドの下の」 「!」 かあっと顔が熱くなる。あれを……あの秘蔵コレクションを見られたのか。想定していなかっただけに、これは恥ずかしい。たしか身体を戻すときに個人情報に関する記憶は消してもらえることになっていたはずだけど、これはそれにカウントされるのだろうか。プライベートと言えばこの上なくプライベートなことなんだが。 太田黒は急速に混乱していく思考を必死にまとめ、なんとか平静を装って話題を変えようとした。 「と、ところで、何の用なのかな?」 不思議ではあったのだ。どうせあと数時間後には桶袋の「ショップ」で顔を合わせることになるのに、どうしてわざわざこんなところに呼び出す必要があるのだろう。 「……何だと思います?」 にやりと笑って幸は聞き返す。太田黒はこういうリアクションが苦手だった。分からないから聞いているのに、どうしてそれに質問を返すのか。 「わ、分からないよ」 「……本当に?」 幸は気味の悪い笑顔を張り付けたまま、太田黒を――本来の自分の身体を――じっと見つめる。長い沈黙と舐め回すような視線に耐えきれず、太田黒は思わず声を上げていた。 「分からないって言っているだろう!」 動揺がそのまま口調に反映されて、語尾が思わずひっくり返る。店内の客が驚いてこちらを見たのにさほど動じる様子もなく、幸はおかしそうに笑ってみせた。 「ごめんなさい、何でもないんですよ」 「へ?」 「いや、ただ自分の身体を他人目線で見てみたくなったっていうかね。せっかくの機会だから」 「……そ、それだけ?」 「ええ、それだけ。わざわざ来てもらったのにこんなこと言うのもあれですけど、思ったほど面白いもんじゃなかったですね。なんか、すいませんでした」 「それは、別にいいけど……」 呆気ない返答にすっかり拍子抜けしてしまった太田黒を後目に、幸はフラペチーノを飲み干して立ち上がった。 「どっちにしてもあとちょっとで24時間です。ついでだから、一緒に電車乗っていきませんか?」 「あ、ああ……そうだね」 自分もコーヒーの残りを飲んでしまうか、残していこうか考えることに忙しくて、太田黒には幸の目が異様な光を帯びていることにまで気を配る余裕はなかった。 * * * それから20分後、太田黒と幸は心沢駅のホームから桶袋行きの電車に乗り込んでいた。 平日・朝・上り線とくれば、通勤や通学目的の乗客は少なくない。当然、車内はすし詰め状態。老若男女がもみくちゃになって、奴隷船さながらの圧迫感の中でじっと時間が過ぎるのを待っている。ある者はヘッドホンを装備してお気に入りの音楽の中に逃げ込み、またある者は器用に折り畳んだ新聞を眺め、ある者は携帯のディスプレイと見つめてメール作りに精を出す。誰もが、この苦行の時間が早く終わってくれることを待ち望んでいるのだ。 いや、「誰もが」という表現には語弊があるかもしれない。ごく少数ながら、例外が存在する。この状況を楽しむ術を心得ている者が。 例えばそう――痴漢であるとか。 2号車両の中ほどのドアから少し奥の位置で、太田黒と幸は縦に並んでほとんど密着していた。でっぷりと贅肉を身にまとい、甘いような酸っぱいような独特の体臭を放つ「自分」の身体を背後に感じて、太田黒は思わず顔をしかめる。 いや、暑苦しいとか、臭いとか、そんなことはこの際どうでも良い。問題は下半身である。今のように太田黒の背後に幸が密着した場合、必然的に腰が触れ合う形になる。それはすなわち、チェックのミニスカートとスラックスを隔てて、男性器が尻に触れることを意味するのだ。 本来は自分のそれである。長年連れ添ってきた相棒のようなものだ。忌むべきものではない。だが、腹の底からふつふつと嫌悪感が沸き上がってきて、どうにも抑えが効かない。その海綿体が次第に充血し、大きさと固さを増しはじめていることに気づいてしまってからはなおさらだった。 背後で、幸の息づかいが荒くなっている。太田黒が意識して腰を離そうとすると、もぞもぞと腰を動かしてより強く性器を押しあててくる。 「!?」 はじめは何かの間違いだと思った。言うまでもなく本来の彼女は女なんだし、今ここにあるのは彼女自身の身体なのだ。いくらなんでも、そんな変態行為を16歳の女の子がするわけがない……そう自分に言い聞かせている太田黒をよそに、幸の行動はヒートアップする一方だった。もはや股間を「押しつける」などという生やさしいものではなく、わずかな前後運動までを伴って執拗に「こすりつける」レベルにまで達していたのである。そのむき出しの欲望はあまりにあさましく、太田黒は本能的に身をよじって逃れようとしていた。 幸は驚いていた。まさか、こんなに気持ちいいなんて。 昨日、太田黒秘蔵の痴漢もののブルーレイを見ながら、何度も股間に手が伸びそうになった。いや、ギリギリのところまではいったのだ。でも、いざパンツを下ろしてナマの男性期を目の当たりにしてみると、そのグロテスクさは彼女の想像をはるかに超えていた。股間の茂みの中から赤黒い芋虫のようなそれが中空に向かってそそり立ち、むなしく痙攣を繰り返しながら”何か”を執拗に求めていた。 これに触っちゃ、いけない。いくらなんでも、女の子として、その一線を超えるのはダメだ。そう思って、こみあげてくる欲求と必死で戦って――そしてついに、勝利したのである。何もせずにブルーレイを見終え、枕にを顔をつっぷして、寝た。 夢うつつの幸の頭の中には、さっき見た映像と際限のない独白が渦巻いていた。痴漢は犯罪だ。最低だ。最悪だ。絶対にやっちゃいけないことだ。 でも、もしも。 もしも当事者同士の合意があったらどうだろう。 太田黒さんはこんなもの持ってるような変態だし、大金積んでまで女の子になってみたかったわけだし、もしかしたら電車内で触られてみたいかもしれない。そりゃ、私の身体を勝手に他人に触らせたりしたら許せないけど、今の私がそれなりに節度を持って触るんだったら、それは痴漢というより、遊び。何ていうか「ごっこ」みたいな、罪のない遊びってことに……なるんじゃないない、かな? 太田黒を呼びだしたのも、その相談を持ちかけようかと思ったからだった。でも、言い出せなかった。常識が、分別が、のどまで出かかった言葉にブレーキをかけた。 やっぱりこんなのおかしい。やめておこう。これ以上変なこと考えずに、このまま「ショップ」に行って、全部おしまいにしよう――そう思った。 なのに、どうしちゃったんだろう。満員電車の中でちょっと身体が触れあった瞬間から、股間の膨張が止まらない。凶暴な衝動に全身を支配されて、卑猥な行為をやめることができない。そこにあるのは雨原幸の、自分自身の身体だっていうのに――! 戸惑いの中にあった幸は、目の前の「自分」がさも嫌そうに身体を遠ざけようとするのを見て、かあっと頭に血がのぼるのを感じた。元はといえばあんたが変態なのがいけないんじゃない。この固くて邪魔くさいおちんちんだって、ほんとは太田黒さんのものでしょ? なのに、なに逃げてんのよ――心の中にあった迷いやためらいがみるみる溶けていって、残されたのは奇妙な怒りと、倒錯しきった肉の欲望だけだった。 とつぜん乱暴に腕をつかまれて、太田黒は思わず息をのんだ。ここ数年、運動と言えばごくまれにプレイするゴルフくらいしかやっていない「自分」の腕力が、こんなにも強いなんて。その左手から伝わってくる幸の「本気」に、彼は少なからず恐怖を感じた。 折しも電車は停車駅にさしかかっていた。乗客の8割が終点を目指して利用している朝の桶袋線である。降りる人間はほんの一握り、乗り込むのはその数倍だ。太田黒は慣れない身体で人の流れに翻弄されているうちに、気づけば幸にすっぽりと抱きかかえられるようなポジションをとらされていた。 ぷしゅう、と音を立ててドアが閉まり、電車が再び動き出す。吊革につかまる必要もないほどに混みあった車内で、幸が小さく――本当に小さく、太田黒にだけ聞こえる声で囁いた。 「こういうの、好きなんでしょ?」 「!」 「ブルーレイでコレクションするくらいですもんね、嫌いなわけないですよね」 「い、いやっ……」 「大丈夫、ただの遊びだから。そう、これは痴漢じゃなくて――」 ごつい指が、弾力のある太股をなであげる。下着のラインをゆっくりとなぞり、引き締まった尻の形を楽しむように揉みしだく。心臓が縮みあがる。楽しんでいる余裕なんて、かけらもない。 「ちかんごっこ」 おぞましい言葉とともになま暖かい吐息が耳元に広がる。ぞくぞくと悪寒が背筋を走り、全身から冷や汗がにじみ出した。 幸は無意識に、至福の表情を浮かべていた。私って、こんなにいい匂いしてたっけ。こんなに小さくて、こんなに柔らかくて、こんなに可愛いものだったっけ。食べちゃいたいって、こういうことを言うのかな。 しっかりと懐におさめた少女の肉体が弱々しい抵抗を続けているのを感じて、幸はにんまりと笑みをこぼした。いけないなあ太田黒さん。それ、誰の身体だと思ってるんですか? 何をしたって、太田黒さんに文句を言われる筋合いはありません。いえ、もちろん悪いようにはしませんよ。どこをどんなふうに触ればいちばん気持ちいいか、私が誰よりよく分かってるんですから。こんなサービス、他じゃ絶対経験できませんよ――? 左手で腰の愛撫を続けながら、右手は身体の前に回り込むようにして、スカートの下からパンツの中にすべりこむ。幸は「自分」のふわふわの陰毛を掌に感じながら、まずはゆっくりとマッサージを始めた。焦ってはいけない。皮膚の下に隠れているクリトリスの位置を意識しながら、痛くないようにあくまで優しく――慣れた手つきは必然だろう。幸にとってそれは、時に部屋で、トイレで、風呂場で、何度も何度も繰り返してきた自慰の手順に過ぎないのだから。 ほら、だんだんほぐれてきた。しっとりして、ぬるぬるして。そう、こんなふうにクリがちょっとずつ固くなってきたら、そろそろ―― びくん、と不意の痙攣に襲われて、太田黒は目を見開いた。抵抗する自由を完全に奪われ、好き放題にもてあそばれてどのくらい経ったのだろう。下半身からねっとりとまとわりついてきた正体不明の感覚の正体が、すさまじい「快感」だったことにはじめて気付く。心拍数が跳ね上がり、呼吸が乱れて、思わず声が漏れそうになった。 ダメだ。ダメだって。こんなに人がいっぱい乗ってるのに。万が一ばれたら大変なことになるのに。 考えれば考えるほど、頭がぼんやりしていく。全身が燃えるようだ。熱に浮かされて、汗ばかりか涙までがうっすらと浮かんでくる。快感の波は打ち寄せるたびにその大きさを増して、あっという間にかつて太田黒が経験したことのないレベルにまで達してしまっていた。 平静を。ああ。何でもない顔を、しないと。あ。周りに気付かれちゃうから。ああ。あ。あああああ。 「ひぐ」 ぬるり、と入ってきた太く骨ばった中指の感覚。それを最後に、太田黒の思考はほとんど停止することになる。 ぴくぴくと魚のように震える「自分」の身体を抱えて、幸の興奮もまた最高潮に達しようとしていた。彼女にとって、目の前の自分自身を愛撫する行為はマスターベーションそのもの。懐の中の少女の肉体がどんな感覚をどんな風に味わっているか、幸には手に取るように分かった。だから、太田黒が絶頂に達した瞬間、幸の精神もまたそれに準じた快楽を疑似体験していたのである。そして彼女の股間に備わった借り物のペニスから伝わってくる、もっとダイレクトで野卑な刺激。幸の中で男女2種類の性衝動と快感が乗算されて、理性の糸がぷつんと切れる。 狂ったように腰を動かして股間の”きつりつ”を「自分」になすりつけはじめた幸に、もはや周りなど見えてはいない。もしも二人が何も着ていなかったなら、確実に挿入が行われていたであろう勢いと体位。履きなれないトランクスの生地が亀頭にこすれる感触、その先にある肉体の弾力と体温、匂い、呼気、全てが一体となって彼女を駆り立てる。 ああ、私、私わたし私――かわいいよ――。 きゅ、と睾丸が縮み上がる感覚。ダムが決壊するように熱い白濁液がペニスを走り抜ける。どぷん、どぷん、どぷんと、全部で三回。身体の中の熱という熱、エネルギーというエネルギーを全て放出するようなその快感は、かつて味わったどんな種類のそれとも異なる背徳感と恍惚を彼女にもたらした。 大量の脳内麻薬に侵された思考で、幸は気付いていた。 私、私のことが、好きだ。 恋をしたことがなかった。告白されたことはあっても、自分からしたことはなかった。中学校、高校と歳を重ねて、まわりの女友達が次々に彼氏を作るようになっても、彼女には浮いた話ひとつなかった。 特に奥手というつもりはない。ただなんとなく、愛するに値するだけの人が目の前に現れなかっただけなのだ。焦ることはないと思っていた。いつか、理想の出会いはやってくるはず、そう考えていた。 ――まさか、こんな近くにいたなんてね。 おかしくてたまらなかった。捜し求めた青い鳥を自宅で見つけるおとぎ話のように、もっとも愛しい人物が自分自身だったなんて。 さあ、元に戻ったら何をしようか。こんな「間接的」な愛し方じゃなく、もっと大胆に、好きなだけいやらしく――。 「ちょっと、ちょっとお客さん」 とんとん、と誰かが肩を叩いている。甘美な未来予想図に意識を集中していた幸がそのことに気づくまで、かなりの時間がかかった。 なんなのよ、こっちは忙しいんだから――楽しい空想を邪魔されたことに腹立たしさを覚えながら、幸はぎろりとそちらを睨みつけた。 * * * 太田黒が「ショップ」のソファの上で目を覚ましたのは、その日の夕方のことである。 まず視界に入ってきたのは、「ボディリース」のコーディネーターを名乗っていた男の顔だった。堀口、とか言っただろうか。眉をハの字にしかめて、面白いほど恐縮した表情を浮かべている。 「ああ良かった、お目覚めになりましたか」 「あ、はあ」 「申し訳ありませんでした」 まともに返事をする間もなく、いきなり頭を下げられて、太田黒は困惑するしかなかった。自分なりに記憶をたどり、意識を失う直前の痴態を思い出してかっと赤面する。あれから一体、何がどうなったというのか。 「え、あ、あれ?」 そこではじめて、太田黒は自分がいまだに少女の身体のままであることに気付く。時間はとっくに過ぎているはずなのに――。 「まことに申し訳ありません」 太田黒がいぶかしげな顔をしていることに気付いたのだろう、堀口が再び謝罪の言葉を口にする。 「こちらのスワップガールがたいへんな粗相を致しまして、お客様には多大なご迷惑をおかけしてしまいました」 「ご迷惑というかなんというか……まあ確かに、えらい目には遭いましたけど」 「あ、いえ、そうではなくてですね」 「へ?」 幸は、電車が桶袋駅に到着し、乗客のほとんどが降りていったことにも気付かず、夢中で「ちかんごっこ」を続けいたのだという。やがてそれは駅員に見とがめられて、当然ながら詰問を受けることになる。痴漢じゃない、合意の上だ、遊びなんだと主張しても、それを裏付ける太田黒は気絶したまま。まあ合意があったとは言いがたいが、意識さえあれば自分の今後のためにフォローにまわっていただろう。だが、気を失っていたのではいずれにせよ証言などできるはずもない。 ことが警察沙汰に発展しそうなことに気付いて、幸は慌てた。いくらなんでもそれはまずい。とにかく、ここをなんとか切り抜けなくては……そう考えた彼女は、自分に詰め寄る駅員を突き飛ばして、一目散に逃げ出したのだという。 しかし、混乱した幸は気付かない。自分が、いつもの自分とまるで違っていることに。それは運動不足の中年の身体。ぶよんと突き出たビール腹、短く太い足、射精直後の虚脱感と、べたべたまとわりつく粘液で濡れたトランクス。若さあふれる彼女本来の機敏な動きが、再現できようはずもなかったのである。 だから、彼女が次にとった行動――追跡をかわすために、ホームから空いた線路に飛び降りて逃げるという選択――は、最悪の判断だったといっていいだろう。着地に失敗して足首を捻り、派手に転んで顔面を強打。激痛に悲鳴をあげてうずくまったところに、はかったように電車の到来を告げる警笛が鳴りはじめたのだという。 「え? つまりその、彼女というか、俺の身体は――し、し、死」 「ご安心ください。幸いと言っていいのかどうか、彼女がさんざん騒いだせいで緊急停止のオペレーションがすみやかに機能したようで。危ういところでしたが、なんとか轢死は免れました」 太田黒はほっと息をつく。 「それは良かった」 「ええ、それはそうなのですが……」 「?」 命拾いはしたものの、彼女はそのまま拘束。警察病院に搬送され、手当ての上で取り調べを受けることになった。現在は事態を聞きつけた「ボディリース」の顧問弁護士が遣わされ、なんとか事態の鎮火にあたっているところなのだという。 「私どもとしてはこの業態が明るみにでるのはなんとしてでも避けなくてはなりません。言葉巧みに、何ならある程度お金を握らせてでも、今回の一件はうやむやにしなくてはならないのです。もちろん、何より優先すべきは太田黒様へのフォローになりますが、これを賠償金という形でお支払いするのは、双方にとって非常に困難で複雑な手続きが伴うことになると思われます。そこで」 堀口はそこで言葉を切り、はじめてまっすぐに太田黒の目を見た。 「ひとつ、ご相談なんですが」 * * * 数日後。 ようやく「ショップ」にあらわれた幸――「太田黒善治」の顔は、なんだかずいぶんと老け込んだように思えた。無精髭がずいぶん伸びたせいもあるだろうが、何よりも精神的な疲労が大きいのだろう。わずかな頭髪が油っぽい汗にまみれて頭皮に貼り付いている様子は、見苦しいことこの上ない。 「あーあ、ひどい目にあったなあ」 ぶつぶつ言いながら、革のベルトで腰と両足を固定する。腕だけは自分では無理なので、堀口が手を貸した。 彼女が座っているのは、入れ替わるときに使った例の「いかにもな装置」である。拘束が終わるとモニターには血圧と心拍数が表示され、健康状態にひとまず問題がないことを示す青いランプが灯った。そのひとつひとつを確認しながら、堀口が応じる。 「我々としても色々と想定外だったがね、なんとかここの秘密は守ることができそうだ」 「それは良かったですね、まあどうでもいいけど。言っておくけど私、ここの仕事は二度とやりませんから」 「そう言うと思ったよ」 「あーもう、ほんとこりごり。さあ、ちゃっちゃと戻してください」 無理もあるまい。他人として逮捕され、何時間にもわたって取り調べを受け、おそらくは怒鳴られたり、脅されたりもしてきたのだろう。それでもこんな軽口をきけるのはタフというか、けなげというか。 「その前に、ちょっとビジネスの話をしようか」 「ビジネス?」 予想外の言葉に、幸は怪訝そうな表情を浮かべる。 「元の身体に戻ってからじゃダメなんですか」 「残念ながら、そういう訳にはいかなくてね」 口調は柔らかだが、その口調には有無を言わさぬ迫力があった。幸もそれを感じ取り、しぶしぶ応じる。 「なんだか知らないけど、早くしてくださいよ」 「今回のことで太田黒氏にどのくらいの損失が出たのか、君に分かるかな?」 「え?」 きょとんとした幸に、堀口はたたみかけた。 「不起訴になったとは言え、痴漢行為で逮捕されてるんだ。勤務先の会社は既に解雇処分に動き出している」 「それって……クビってことですか?」 「おそらくはね。それだけじゃないぞ。ダイヤを大幅に狂わされた鉄道会社からの損害賠償もかなりの額になるだろうし、もちろん我々だって尻拭いにそれなりの手間と金を費やすことになった」 ごくりと唾を飲み込もうとして、幸ははじめて口の中がからからに乾いてきていることに気付いたようだった。 「これらの損失を埋め合わせることが、君にできるかな?」 「ちょっと待ってくださいよ、何でそういう話になるわけ? それ、私の身体でしょ? 私が自分の身体を触って、何がいけないんですか? だいたい、元はといえば太田黒さんが変態なのが」 「誰がどんな性的嗜好を秘めていたって、それは責められるべきじゃない。”秘めて”いる分にはね」 「う……」 「痴漢もののAVを眺めてオナニーにふけることが好きだって、それは別にかまわない。どんな想像をしたっていいだろう。ほとんどの人はそうやって、何かしらの形で自分の欲望を飼い慣らしているんだから。でもそれを行動に移すとなると、そこには責任が発生する。それが社会と言うものなんだよ」 「分かんないよ、何言ってるか分かんない!」 「君が考えて、君が実行し、君がしくじった”ちかんごっこ”の不始末。それをすべて太田黒氏に押しつけて元に戻ろうっていうのは、ちょっと虫が良すぎるんじゃないのかな?」 「な、何が言いたいのよ!」 「君には、これだけの責任があるということだよ」 ぺらりと顔の前に突き出された請求書、そこに書かれた金額を見て、幸は顔色を変えた。 「こんなの……、む、無理に決まってんじゃん!」 「だろうね。”残業手当”を付けた今回のギャラを全部支払いに当てたとしても、まったくもって話にならない。だからもうひとつ、責任をとる方法を用意した」 「え?」 「太田黒さん、よろしいですね?」 堀口の呼びかけを受けて、太田黒が「ショップ」の奥から姿を表す。 抵抗がないわけじゃない。でも、他にどうしようもないじゃないか。そう自分に言い聞かせる。 「……はい」 太田黒の返事を合図に、幸の頭上から大きなヘッドセットが降りてきた。手足をしっかりと固定されている幸には抵抗の術もなく、ただ声をあげることしかできない。 「何、なんなの? どうして私の身体がセットされてないのにスタンバイ入ってるわけ? 太田黒さんもそっちの椅子に座らなきゃ、元には……」 「君はもう、元の身体に戻ることはない」 「……は?」 「太田黒善治という人間が被った社会的…経済的な被害を補償することは、君にはできない。だったら、補償するのではなく、君自身に引き受けてもらうしかないだろう」 「な、何言ってんの? ちょっと、ねえこれ一回外しなさいよ!」 「今から君に行うオペレーションは、本来、入れ替わりが終わった後で太田黒氏本人に受けてもらうはずだったものだ。入れ替わった相手、すなわち西村幸の個人情報に関する記憶を抹消する。顧客のストーカー化などのトラブルを避けるための処置だね」 会話をしながら、堀口は慣れた手つきでキーボードを操作する。装置から無機質な作動音が響き、LEDランプが点滅をはじめる。 「私の……記憶を? 馬鹿言ってんじゃないわよ! 私が私のことを忘れるわけないでしょ?」 「だから”私”じゃなくなるんだよ。君は正真正銘の”太田黒善治”になるんだ。その身体で自分がしでかした不始末は、君自身が本人になりかわって償ってもらう」 「そんな……嘘でしょ……」 「別に信じてくれなくてもかまわない。それじゃ、いくよ」 「ま、待って!」 幸の声はかすれて、裏返っていた。背中からわきの下にかけてびっしょりと冷や汗が浮かび、呼吸も荒い。頭部をすっぽり覆う機械のせいで表情は見えないが、そこにある焦りと恐怖ははっきりと見て取れた。 「ごめんなさい! 私が悪かったです! 反省してます! なんでもするから、元に戻して下さい。お願いだから、ねえ、お願いだから! 助けて! 本物の太田黒さんになるなんて、冗談じゃないよ! こんな姿で生きていくくらいだったら、死んだ方がマシだよぉおっ!」 激しく肩をゆさぶり、声を限りに絶叫する幸。恥も外聞もなく、見苦しくあけすけなその懇願は、ぐらついていた太田黒の心を動かすだけの迫力をともなっていた。 死んだ方がマシ、か。 ……そうだよね。 たしかに、今までの人生をこんな可愛い身体で生きてきた君にしてみたらそうかもしれない。たった数日「雨原幸」として過ごした俺だって、それはよく分かるよ。 社会的な損失とか、経済的な被害とか、そんなことを全部わきに置いといたとしたって、絶対、こっちの方がいいよね。 俺も、そう思うよ。 だから。 だからこそ。 「さようなら、幸さん……ううん、”太田黒善治”さん」 太田黒、もとい「彼女」が静かにそう言い放つのと、堀口が最後のエンターキーを押したのは、ほぼ同時だった。 すべてのランプが点灯し、装置が作動を開始する。 「いやっ、いやっ、いやっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! あ、ああ、あああああああっ? ああ駄目っ、やめてっ! お願いだから! やめてやめてやめて! 取って! これどけて! 消え……あ……私……い、い、いやだぁあああああああっ!」 身長。体重。血液型。生年月日。住所。電話番号。友人。知人。家族。好きなもの。嫌いなもの。そして西村幸という名前。その顔。その肉体。頭の奥で、かつての自分にまつわるデータが次々に砕け散っていくのがはっきりと分かる。後に残るのは、そこに「何か」……とてつもなく大事な「何か」があったというかすかな痕跡だけ。 もはや何が恐ろしいのかすら分からなくなっていく曖昧な恐怖の中で絶叫しながら、かつて幸だった「彼」は失禁していた。溢れ出す尿はまるで脳からこぼれ落ちた記憶そのもののように、処置の進行とともに量を増していく。尿道からペニスへ、太股から体毛にまみれた臑を伝って、足首から床へ。 処理に要したのは、5分にも満たないわずかな時間。すべてが終わった後、装置の椅子の下には湯気を放つ薄黄色い水たまりが残されていた。 * * * 「あーキモかった! ほんっと、とっとと捕まってくれないかな、あんなクズ」 「どうしたの?」 「聞いてよ、マジ最悪だったんだけど」 新しい身体と新しい生活にようやくなじんだ頃、「雨原幸」はクラスメートからその噂を聞かされた。平日の午後、がらんとした西部桶袋線にあらわれる変質者。若い女を見かけるとふらふらとやってきて、荒い息と共に訪ねるのだという。 「ねえ、あんた、あたし?」 意味不明な質問。見るからに汚らしい格好。不審者としてのスペックはそれだけで充分である。だが、何より異様なのは、その目なのだそうだ。ぎらつく性欲とおどおどした卑屈さのかげからのぞく、無くした何かを必死で捜し求めるような瞳。 「彼」だ。考えを巡らすまでもなく、その正体に思いが至る。 おそらく、と「幸」は思う。あの装置でなされたのは「記憶消去」の措置でしかなかった。すなわち、「大田黒善治」としての認識や記憶を与えられたわけではなかったのではないだろうか。そこに残されたのは、自分が何者であるかも分からない、からっぽの中年男性。 ――いや、と「幸」はなおも思う。 からっぽ、ではないのだ。あの体には、確かに彼女が宿っている。なにが、とか、なぜ、とかはちっとも分からないまま、ただ自分の身体への強烈な違和感と嫌悪を抱えた、かわいそうなかわいそうなあの子の魂。 もしもその変質者に出会ったとしたら、自分はどんな顔をすればいいのだろう。 噂通りに「あんた、あたし?」と聞かれたら、何と答えればいいのだろう。 「――幸?」 「あ、うん」 「もう、人が真剣に話してんのに、なにニヤニヤしてんのよ」 「え……?」 いつの間にか、口の端に笑みが浮かんでいたことに気付いて、「幸」は愕然とした。 「ご、ごめん」 そう、これは笑いごとじゃない。たった一日だけのお小遣い稼ぎだったはずだったのに、たった一度の過ちのせいで、全てを奪われてしまった女の子の、悲劇の物語なのだ。 それなのに。 こんなにもゾクゾクするのは何故だろう。彼女の気持ちを、戸惑いを、混乱を考えれば考えるほど、心の奥で燃え上がるこの暗い昂ぶりは何なのだろう。もしも「彼」の質問に「うん、そうだよ」と答えたら、いったいどんなリアクションをするのか――見たくて、知りたくてたまらないのは、いったいどうしてなのだろう。 「ねえねえ」 だから、聞かずにはいられなかった。 「そいつって、いつ頃の電車に乗れば逢えるの?」 おしまい |