der Sturmer
 作:田中


 顔のない日本人を排斥せねばならないというのが政府の共通認識である。
 顔のない日本人は正体を見ればすぐわかる。というのもこいつらは、常にヘッドフォンを装着している。ヘッドフォンからはほとんど雑音のような言葉が、平坦な合成音声で垂れ流しにされ、本来の日本人からすれば、聞くに堪えない雑音であるという。さらに、顔はのっぺりとしていて、さながらパソコンのディスプレイのようになっている。加えて彼らは、一度正体がばれると、おどおどとして落ち着きがない。虚勢を張ることもあるが、最終的にはこちらの権威筋に屈服する。
 所詮はその程度の人種なのだが、この顔のない日本人は、性質が悪いことに日本人に擬態したがるという性癖を持つ。
 顔のない日本人は、自分を持たない。人間ならば、日本人ならばもってしかるべき自分を持たず、右から何か叫ばれれば右へと、左から怒鳴られれば左へと流れる。思えにはどのような思想があるのか、と問われれば、自分は、○○であると思いますのですがどうでしょう教えてくださいませんか、と、絶対に断言しない。自信がないのではない。それ以前に、自分がないからだ。
 だからこそ顔のない日本人は、顔のある日本人に対して恨みを抱いている。そこには羨望と嫉妬がある。

 ある時、こんなことがあった。
 純潔の日本人同士の結婚式があったのだが、そこへどこからか顔のない日本人がやってきて、結婚式をめちゃくちゃにした。
 新婦は頬が紅潮し、涙で濡れる瞳は黒曜石のように輝いていた。だと言うのに、そこへ、顔のない日本人が乱入した。
 ウエディングケーキをカットする、と、そのような事態になって、突然、バタンと会場の入り口の扉が開き、蒼ざめた顔の花嫁が現れたのだ。目を丸くする新郎に向かって曰く、
「騙されてアいけません(顔のない日本人はよく、格助詞の母音を強調する)。その花嫁ア偽物です、私オ控室に閉じ込めて、私になりすましているのです」
 もちろん大和撫子たる純潔の日本人である新婦はきっと偽物の花嫁を睨みつけ、ウエディングケーキを切るナイフを抱くと、ウエディングドレスのまま偽物の花嫁に躍りかかった。偽物の花嫁はすぐに馬脚を現し、スカートをたくし上げて走って逃げる。並み居る参列者を蹴散らし、来賓がひっくり返る。蹴躓いて転ぶと、
「あれえっ」
 と叫び声をあげ、四つん這いになり、尻を振りながら逃げる。スカートを踏みつけて逃げたために、ドレスがビリビリになった。下着をつけていなかったため、哀れ花嫁は、自分と寸分違わぬ白い尻を、衆目に晒すところとなった。
「無礼者ッ」
 花嫁が叫び、切りつける。大きくのけ反った偽物の花嫁は大げさに飛び退いて、ウエディングケーキに飛び込んだ。ここまですれば、どちらが偽物か言うまでもない。偽者の花嫁は、新郎によって見事退治された。

 この事例において、純潔の日本人たる花嫁の気高さが象徴された。これはせめて、不幸中の幸いとでもいうべきものであったが、しかし、顔のない日本人による卑劣な行為はなおも続いた。
 有名な事例を二つ挙げることができる。一つは百合丘女学園準日本人なりすまし事件で、これは、五十七日にも及ぶ長い日数、理事長の娘である本物の女学生が、顔のない日本人二名によって監禁され、存在を模倣されたものである。
 顔のない日本人はこの伝統ある学校に乗り込むと、内乱目的で治安を乱し、これに対して苦言を呈した理事長の娘を自宅にて監禁したのである。
 監禁生活における拷問は、主に性的なものが多かったようである。
 顔のない日本人は、純潔の日本人たる彼女の矜持を破壊せんと、彼女自身になりすまし、彼女の顔や姿で淫らな行為を行ったものである。手淫に始まり、互い互いに膝立ちになり、秘所をぐぷぐぷと泡立たせ、彼女本人に対して小便を強要した。彼に抵抗すると、髪の毛を引っ張り、蹴りつけ、乳房を愛撫し、言葉にするも恐ろしい猥褻な行為でもって彼女を強姦した。加害者たる二人の顔のない日本人が、同性であったことがせめてもの幸いだったかもしれぬ。もしも加害者によって強姦されていれば、彼女は恥辱のあまり自決を選んだことだろう。
 彼女は耐えがたきを耐えたのだ。たとえ小便を強要され、また、飲むように強要されても。浴室から二人の自分の喘ぎ声が聞こえてきたとしても――大股を開き、純潔の日本人の美しい裸体を弄ぶ姿だったろう――これを想像せざるを得なかったとしてもだ。かくして、彼女は耐え、二人の顔のない日本人は捕まった。二人の加害者の短絡的な逆恨みが、どれだけ「日本人」を侮辱しているか、これでわかることと思う。本来の日本人であれば、このような、短絡的な恨みなどは抱かない。
 続ける事例は、手遅れになったケースである。
 ある三つ子アイドルが楽屋にて淫行を繰り広げていたケースであったが、発覚したのは、ステージで踊る彼女らの下着が大きく隆起していたことにあった。男性器である。後をつけたスタッフは――のちに打ち首となったが――それぞれ、顔のない日本人が、同じ顔をした本物の日本人に対して口淫をさせていた光景を目撃した。ステージ衣装のまま後ろ手に縛られたアイドルたちが、男性器を生やした顔のない日本人たちに、無理矢理膝立ちにさせられ、円陣を組まされ、代わる代わる違う男の男性器を舐めさせられたのである。
 彼女らの心境を慮るに、筆者は同じ日本人として、断固としてこの醜悪なる顔のない日本人を排斥せねばと思う。顔のない日本人たちは性欲しか頭にない。さらに悪いことに、日本人を犯すことで、同じく顔のない日本人に仕立て上げようとしているのである。顔のない日本人はもちろん処刑された。しかし、この三人娘は、彼らによって凌辱されてしまった。本来、日本人を啓蒙するために政府から遣わされた彼女らが、である。
 咎なき三人娘は、せめてもの情けと、同じ日本人によって恥を雪がれたのはせめてもの慰めというものであろう。
 
 このように振り返れば、さてどのようにして顔のない日本人と日本人とを判別すればよいかと悩むであろうが、案ずることはない。要するに、気高く美しい日本人に少しでも偽りが混じっていれば、そのものは顔のない日本人なのである。日本人は決して優柔不断ではない。日本人はいつも正しくある。日本人の気高い精神は肉体となって表れる。
 しかしながら、日本人の中には容姿をどうとでも変えられる顔のない日本人を羨む者もいる。まことに浅ましいと言わざるを得ない。筆者も日本人の女性であれば、祖国のために幾人もの日本人を生んだであろう。同じ日本人に生まれ、また、日本人を生むという女性の特権を得たのに、これをみすみす捨てるとはどうしたことか。日本人は、日本人からしか生まれえない。少しでも顔のない日本人によって精液が流し込まれてしまえば、もはや健全な日本人は生まれなくなるのである。
 あるマンションに住んでいたデザイナーであるシングルマザーは、顔のない日本人と姦通していた。顔のない日本人が、彼女自身になりすまそうと、偽者の娘を連れて保育園に潜入したと言うのに、この顔のない日本人を告発するどころか、家へ招き入れ、幼い娘すらも淫楽の道へと招き入れ、娘と交わったと言うのだ。
 娘と、娘に化けた顔のない日本人を混浴させ、まず顔のない日本人が娘に淫行を教え、その後、自分の娘と偽者の娘の違いすら見分けられず、求められるまま性交に及び、もう一組の偽物の自分らと淫行に耽ったとは、同じ日本人として恥ずかしい限りである。警察が踏み込んだ時には、娘は親たちの股座に顔を突っ込み、親は呑気にペットボトルで水を取り、さらに一戦交えるつもりだったと言うのだから呆れてものも言えない。

 筆者がこのような事例を取り上げるのは、断じて自らを慰めるためではなく、日本人の精神を、一人の新聞記者として啓蒙するためである。筆者こそが真の愛国者であり、真の日本人である。そもそも日本人は合成音声を雑音だとか抜かすが、とんでもないことである。日本人には感性が分からないのだ。日本人は何でもかんでも悪いことは外国人のせいにしようとする。そもそも本物の日本人などいないのだ。日本人が交わっている相手は、いつだって、自分自身に過ぎないのだ。相手を通して自分自身を可愛がろうとしているに過ぎないのだ。日本人は
 





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