とある男女の夏休みの物語-6-
 作:ONOKILL


元通り

「治」
 背中越しに聴こえたその声に治が振り向くと、数分前に別れたばかりの平助が立っていた。
 平助が二人の傍に近づいてくると、治は立ち上がり、平助に向かって問いかけた。
「じいちゃん、どうしてここに…?」
 平助は治の声を無視し、相変わらず座り込んでいる典子の前に立ち止まった。そして彼女の正面に対峙し、両肩を掴んだ。
「少し痛むぞ」
 小さな声でそう言うや否や、自分の額を典子の額に思いっきり打ち付けた。

「痛ぁああああーーい!」
 平助は自ら打ちつけた額を両手で押さえながら後ろにのけぞり、そのままその場に座り込んだ。一方、典子の方は打ちつけられた額を押さえつつ、薄ら笑いを浮かべながらゆっくりと立ち上がった。
 平助は痛みの余り、目に涙を浮かべた。そして目の前に立つ典子に向かって言った。
「おじいさま、どうしてこんなことを…」
 平助はそこまで言って両手で自分の口を押さえた。そして自分の頭や髪の毛、自分の身体をべたべたと触った後、両手を見つめながら震えるような声で言った。
「どうしたんだ、じいちゃん?」
「か、身体が元に…、元に戻ってる…」
「何だって!」
「そうだよ、治。私、典子だよ」
 平助、いや元の身体に戻った典子はその場から立ち上がり、勢いよく治に抱きついた。治はそんな典子を愛おしげに力一杯抱きしめた。

「典子ちゃん、本当にすまなかった」
 平助は治と抱擁している典子に向かって言った。
 典子を抱きしめていた治は彼女の身体をゆっくりと引き離しながら、平助に向かって問いかけた。
「じいちゃん、どうして元に戻ったんだ? 何か知っているんだな?」
 治の言葉に平助は答えた。
「ああ、知っている。ワシと典子ちゃんが入れ替わったのはある種の魔法のようなもので、それはこの指輪の力なのだ」
 平助はそう言って、左手の薬指にはめていた指輪を外して二人に見せた。
「それって、おじいさまの婚約指輪じゃなかったのですか?」
「そうじゃない。これはとある国の骨董市で買ったもので、これを売っていた店主から、心と身体を入れ替える力がある、と言われた」
 指輪は宝石が付かないシンプルなものだが、内側には英語でも日本語でもない不思議な文字がびっしりと印字されていた。
「ワシはそんな胡散臭い話をこれっぽっちも信用していなかったが、形が亡き妻との間に交わした婚約指輪にとてもよく似ていたのでな。気が付いたら買っていたのだ。そして指輪の醸し出す不思議な感覚に吸い寄せられるようにずっと身に付けていた」
 典子は平助の手から恐る恐る指輪を受け取り、興味深そうに見つめた。彼女は平助の身体になった時、左手の薬指にはめられているこの指輪に気付いていたが、婚約指輪だと勝手に思い込み、肌身外さずに大事にはめていた。それが功を奏したのか、指輪を紛失することなく、そのお蔭で無事に元の身体に戻れたわけだが、万が一紛失していたら、永遠に元の身体に戻ることが出来なかったのだ。彼女はそれに気付くと改めて身が震える思いがした。

「じいちゃん、どうしてすぐに言ってくれなかったんだ」
「だから、すまないと言っている。ワシはあの日、お前たち若い二人を見てとても羨ましく思った。言い方を変えると、ある種の嫉妬の様なものを感じていたのだ」
「…」
「だから、ワシは典子ちゃんの若い身体になれた時、本当に嬉しかった。例え女子の身体であっても、青春時代を取り戻したかのように思えた。幸いな事に、典子ちゃんはワシの身体になっても動じず、むしろ楽しんでいるように見えた。この老いぼれの身体を受け入れてくれたように錯覚したのだ」
「確かにあの時は、おじいさまの身体にものすごく好奇心が湧いて、怖いもの見たさって言うか、ほんの少しだけこのままでいいかも、って思った…」
「そうだ。ワシも典子ちゃんもお互いにそう思っていたのだ。だからすぐに元に戻らなかった。いや戻れなかった」
「そういや、入れ替わった直後も今と同じように二人で頭をぶつけあったけど、元に戻らなかったよな」
「うん」
「どうやら元に戻るためには、入れ替わった者同士の“元に戻りたい”と言う強い気持ちが必要だったのだ」
「なるほど…」
「最初に本当の事を言っておけば何も問題はなかった。ところが言えなかった。そして典子ちゃんとして生活していくわけだが、毎日があまりにも楽しかった。楽しくて、つい本当の事を言えなくなってしまった…」
「私もおじいさまとしての毎日が何もかも新鮮で本当に楽しくて、あっという間に時間が過ぎた…」
「そして今日、ワシは別の思いから治と典子ちゃんを二人っきりにして、すぐ傍で様子を見ていたが、そこで初めて典子ちゃんの本当の気持ち、悲しみを知った。そして自分自身の愚かさに気付いた。だから、元に戻らなければ、と思ったのだ」





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