【予告編】

「まさか、これって? ひょっとして……」
 ぼくは下を向いた。そこにはセーターに包まれた、大きなふたつの胸のふくらみがあった。女性の手で触れると、やわらかさが指に伝わり、同時に胸に触れられているという感覚がする。
 女性の胸だ。そして、この声と手。
 まちがいない。
 ぼくは、お姉さんになってしまったらしい。





「おねぼく ―あこがれのおねえさんに憑依してしまったぼくの日常―」

 作・JuJu



【プロローグ】

 闇だった。
 何も見えない、何も聞こえない。
 皮膚の感覚さえ失われ、ぼくは死体のように何もできなかった。
 すべてを感じ取ることのできない世界の中で、肉体の重さだけがぼくに残された唯一の感覚だった。
 しばらくして、ゆっくりと上昇する感じがした。
 体を動かせないぼくには、どうすることもできない。見えない力に身をまかせて、上昇していくしかなかった。でも不安はない。これはきっと、さっき飲んだゼリージュースの効果だと分かっていたからだ。
 重い肉体の束縛を脱ぎ捨てて、魂が浮き上がっていく感覚だけが、ぼくの全身を取り巻いていた。
 しかし同時に、ぼくの魂を肉体に残させようとする力も感じた。
 浮き上がろうとする力と、体に残そうとする力が、同じくらいの力で、ぼくを上下にひっぱる。
 体が千切(ちぎ)れそうだ。だけどぼくにはどうすることもできない。
 やがて魂はふたつに引き裂かれた。
 体の中に半分の魂を残したまま、ぼくの魂はふたたび浮遊をはじめた。
 ついに肉体の重さはまったく感じられなくなった。魂だけの存在になり、無重力の宇宙をふわふわと漂(ただよ)う。そんな言い方がしっくりとくる感覚だ。
 その時、闇に変化が訪れた。真っ暗闇だった世界が薄ぼんやりとした明かりに包まれ、それは急速に強くなっていく。
 そして世界は、白い光に包まれた――。



【第1話(全10話)】

 ぼくは目を開いた。
 まぶしい光が目に差し込むのと同時に、町の生活音が耳に入ってくる。
 思考がぼやけて、うまく考えられない。
 ぼんやりとした頭で周囲をながめる。
 学習机の上に置かれた、新学期から新しく使う小学五年生の教科書と、ぼくの名前――日宵成桐(ひよい なりきり)――と書かれたノート。
 それからベッドと、黒いランドセル。
 お気に入りの漫画と、数本のゲームソフトが並ぶ本棚。
 既視感(デジャビュ)とでもいうのだろうか。どれも見慣れているはずなのに、なぜか初めてみるような感じがする。
 だけどここは、まちがいなくぼくの部屋だった。
 ぼんやりしていた頭が、少しずつはっきりとしてくる。
 これほど見慣れた場所なのに違和感があるのは、部屋全体を上から見下ろしているからなのだと、今さらながら気がつく。こんな場所からぼくの部屋を見ることなんて今まで一度もなかったのだから、違和感を感じるのは当然だ。
 それにしても、どうしてぼくは天井から部屋を見ているのだろう。
『そうか、ぼくは体から抜け出して浮遊しているんだ!』
 ようやく意識が覚醒してきた。
『ぼくはあのゼリージュースを飲んで霊体になったんだ!』
 実はぼくも、あのゼリージュースの効能なんてほとんど信用していなかった。興味半分おもしろ半分に飲んでみたにすぎない。でもこうして、ぼくが天井近くに浮いているというのが、あのゼリージュースが本物だったという確かな証拠になった。
 本棚の上に、無くしたと思っていた漫画本を見つける。本棚に入りきらなかったので、本棚の上に置いたのをすっかり忘れていた。
 さっそく漫画本を取ろうと手を伸ばしかけた時、ぼくの声がした。
「なんだ……。何にも起こらないじゃないか!」
 ぼくはおどろきながら声のした方を見た。
 そこにはなんと、もう一人のぼくがいた。空になったゼリージュースのガラスビンを握りしめて立っている。ビンをにらみながら、ぼやいでいたのだ。
 そうだ、全部思い出した。あのゼリージュースを飲んだ後、気が遠くなってきて、世界が真っ暗闇になったのだ。その後、魂が体から抜け出す感じがして、でも同時に体の中からも引っ張られる感じがして、結局ぼくの魂は半分に千切(ちぎ)られた。
 あの感覚は、夢じゃなかったんだ。
 どうやらあのゼリージュースは、魂を半分だけ離脱させるものらしい。だから魂の半分は、ぼくの本体に残っているのだろう。
「なにが空を飛べるゼリージュースだよ! 騙(だま)された! なんだあんなジュース、やっぱりニセモノだったんだ」
『そんなことないよ、本物だよ!』
 ぼくは自分の前に降りたって抗議してみたが、どうやら霊体になったぼくのことは見えないみたいだった。
 ぼくにぼくの姿が見えないこと、それにぼくの声が届かないないことを知って、急に恐怖が襲ってきた。
 元に戻らなかったらどうしよう。元のぼくはちゃんといるから、だれも幽体になったぼくのことは気が付かないだろうし。このままいつまでも、誰にも知られずに、誰と話すこともできないことになってしまうのだろうか。
 ゼリージュースを手に入れたとき、時間がたてばもとの体にもどれるって聞いているけれど、そんなの本当かどうかもわからない。
 不安に襲われたぼくは、必死に頭を働かせた。
 そうだ! ぼくの体から抜け出たのだから、もう一度ぼくの体に入れば元に戻れるはずだ。
 そうおもって、ぼくは元のぼくの体に、幽体を重ねようとして近づいた。
 だけど、その時。
「つまんないなー。騙されて気分がくさくさする。散歩でもして、気を晴らそう」
 そういってぼくの本体は、ドアに向かって歩き出した。
『あっ。待ってよ!』
 ぼくはあわてて追いかけようとしたが、幽体の体は移動をするのがあまり得意ではないらしく、ふわふわと浮遊した動きで速度がほとんどでない。
 そうこうしている内に、追いつくことができないまま、ぼくの本体はドアを開けて部屋を出ていってしまった。
『待ってってば!』
 ぼくはドアノブに手を伸ばして、閉まっているドアを開けようとしたが、幽体になっているぼくの手は、ドアノブをすりぬけてしまう。さわることができないのだ。
 窓から出て追いかけようと思い窓を見たが、きっちり閉じられている。
 窓も戸も閉まったままの密室じゃ、外に出られそうにない。
『あーあ……』
 ぼくはやれやれとため息をつくと、ふたたび部屋の天井にもどった。
 ぼくの本体はいずれ部屋に戻ってくるだろうと自分に言い聞かせる。帰ってくるまで暇をつぶそうと、なくしたと思っていた、棚の上の漫画本に手を伸ばすが、ドアノブの時と同じように体がすり抜けてしまい、さわることができなかった。
『あ。そうだっけ。ぼく、物にさわることができなかったんだ』
 どうやら、ぼくがもどってくるまで、こうして浮遊しながら待っているしかないらしい。遊びたくても、物にさわれないから漫画も読めないし、ゲームもできない。たいくつだ。
 ぼくは部屋の真ん中でぷかぷかと浮かびながら、ぼくが戻ってくるのを待った。
 ぼんやりと物思いにふけっていると、突然、頭の中でひらめきが起こった。
『まてよ? 逆に考えるんだ。物にさわれないと言うことは、ドアも壁もすりぬけられるってじゃないか?』
 人間だった時の習慣で、密室になったこの部屋から出られないとおもっていたけれど、手がドアノブをすり抜けるということは、体全体もすり抜けることができるということだ。
 さっそくぼくは、試してみることにした。
 はたしてボクの体はドアを抜けて、廊下に出ることができた。
『やった! これでぼくを探しに行くことができる!』
 ぼくは廊下の壁もすり抜け、町に出た。

(「第2話」につづく)






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