火曜日7月7日、8日 凛太郎の決断(その4) 「……ん、? リンタ? もう帰んの?」 天にも登る程の心地よさと、疲労でうつらうつらしていた修一が、ベッドに腰掛けながらブラジャーを着けていた凛太郎の姿を認めていた。すっかり寝ていると思っていたのか、驚いた風で凛太郎の肩がビクッと動いた。 「あ、起きたんだ。もう四時だし、おばさんも帰ってくるかも知れないし、笑ちゃんだって……」 あれだけ裸で抱き合ったと言うのに、凛太郎は修一の視線から素肌を隠すように両手で肩を抱いた。散らばって床に落ちているカットソーを拾い上げる。ベッドで頬杖をつきながら、その様子をじっと修一が眺めていた。 「別に服来てたら帰って来ても平気だろ?」 「ん、でもさ。ちゃんとしようよ。後から何か言われるの嫌でしょ? 僕も嫌だし」 カットソーから首を出し、その裾からちょっとだけ見えそうになるショーツを隠すように手で伸ばす。修一にはその姿が妙にエロいと思えていた。 「修ちゃん、あんまり、その、お、女の子の着替えをじっと見ない方がいいと思うけど」 丸裸になって、身体の中心まで見られているのに、着替えを見られる方がなぜかもっと恥ずかしい事のように思えてしまう。凛太郎は紅くなりながら頬を膨らませて修一を見ていた。 (自分の事女の子なんて言っちゃうと、なんか変な感じ。僕ってもう女の子になんだよね……) 今更ながらに凛太郎は思っていた。女の子として修一とセックスしたかったのだ。今日、それが叶って、もう思い残す事は何もない筈だった。 「何だよ。見ててもいいじゃねぇか。もう帰っちゃうんだろ?」 多少不服そうに修一が喋る。けれど、けして凛太郎の事を怒っている訳ではない。ちょっとだけ拗ねてみた、それだけだった。ただそれは凛太郎には効果覿面だったけれど。 「……もうっ」 カーゴパンツを穿きながら凛太郎が呟く。そのままベッドの上の修一の前まで行くと、修一がちょっと驚いたように目を丸くしていた。 凛太郎が小さな手が修一の頬に柔らかく触れた。くっと顔を押さえると、長い漆黒の睫毛に彩られた大きな瞳でじっと修一を見つめた。 (もう、これが最後なんだ……。『僕』として修ちゃんに触れるのって、ないんだ) 男から女性化した「山口凛太郎」は、凛太郎が帰った後はその存在自体も、もう誰もそれが性別が変化した事がある、という事実を思い出す事は無いのだ。例えそれが凛太郎本人だとしても。男だったという事実自体が無かった事になる。これまでの十六年という月日の中で起こった嬉しいことも悲しいことも辛いことも、全て。 凛太郎は修一を見つめながら、今までの様々な出来事を想い出していた。そして、今修一に抱いている想いも感情も無くなってしまうのかと思うと、言い表せない程の喪失感に襲われた。胸がいっぱいになって、鼻の奥が熱くなってくる。 「困らせ、ないでよ……」 泣くつもりなんて無かったのに、ぽろぽろと涙が流れ落ちていった。本当は軽くキスして帰ってしまおうと思っていたのに。泣いたらまた修一に心配をかけると思っていたから。 「な、なんだよっ。そんなに泣くことないだろ……。悪かったって。その……嬉しくて、調子に乗ってた。あっそうだっ」 自分の頬に手を置いたままの姿勢で、好きな女の子に見つめられながら泣かれる。とんでも無く困ってしまう状況に修一は困惑してしまった。凛太郎の涙の理由がどこにあるのか、それが解っていたならどうあってもさせなかっただろうけれど、修一にそれを知る術は無かった。そんな戸惑いと無頓着さを隠すように、急に修一が大きな声をあげた。凛太郎は少し驚いて身体を引いた。 力を掛けないように凛太郎の手を外すと、修一は全裸のまま吊された制服のズボンのポケットを探っている。後ろから見た逆三角の身体は綺麗だけれど、全裸というのはちょっと目のやり場に困る。涙は切れたけれど、凛太郎はそのまま視線を落とした。 「あ、あった。これこれ」 「え? あ!」 ミシマに強奪されていた銀の犬。もう二度と戻ってこないと思っていた修一からのプレゼント。 「修ちゃん……! これ」 「もう無くすなよ」 修一はベッドに腰掛けながら凛太郎の手にそれを握らせた。ぎゅっとそれを握りしめながら、凛太郎は感極まったのか再びその大きな目に見る見る内に涙が溜めていった。 「うん」 凛太郎が涙を湛えた目を閉じると、大粒の涙が一筋流れていった。そのまま二度三度とキスをしていく。 「ん、帰るね。もう無茶な事しないでよね」 「今回だけだからな。お前も心配かけんなよな」 修一の腰掛けるベッドから起きあがると、凛太郎はそのまま部屋の入り口に立っていた。くるりと振り返り修一をもう一度見つめる。しっかりと瞼に焼き付けたかった。今の自分を好きでいてくれている人を。けして美男子の部類には入らないけれど、誰もが好感を持つ意志の強そうな顔つき。羨ましいくらい逞しい上半身と下半身。そして、二人で触れあった素肌。その全てを、今の凛太郎の心が修一を見ているという事を、どこかで覚えているように。 泣き笑いの表情だったけれど、一言だけ小さく呟いていた。 「さよなら」 「またね」とか「明日ね」とかそういう次がある言葉ではない。いつもの修一はその違いを感じ取っていたかも知れないけれど、若干初めてのセックスで呆けていたのか、「明日、な」と答えただけだった。 家に帰る途中、色々な所を見ていた。次第に赤く焼けていく空。いつも見る公園。 (夕焼け、綺麗だな……) 記憶を摩り替えてしまったら、綺麗な夕焼けも綺麗じゃないように見えるのだろうか? 好きな人も好きじゃなくなってしまうのだろうか? これまで思ってきたものは全て消え失せてしまって、新しい記憶に替わってしまうのだろうか。それとも好きな気持ちは変わらずに……。 凛太郎は家に早く着きたいような、そうでないような、ペダルを漕ぐ足が重たく感じながら、帰っていった。 * * * * * * * * * 「ただいま」 「お帰りなさい」 まだ五時前では千鶴は帰ってきていない。習慣として声に出てしまう。しかし誰もいないはずの室内からの返答に、凛太郎は面食らってしまった。 「あ、驚いた? わざわざ待ってたんだけどね」 ローブを纏った、あの少女の姿をした魔物がひょっこりと居間から顔を覗かせた。今まで魔物が出てくるシチュエーションと言えば「ボディメイト」で妖艶な魔物と会った以外では、夢の中か凛太郎が目を瞑った時だけ。凛太郎の驚愕は当然と言えば当然だった。 「え? あ、なんで? 僕寝てないのに」 「わたし達って、人間が寝て無くても姿を見せられるんだよ。夢の中だと力がほぼ無制限に使えるから、その方が何かと便利だけど、必要に応じて使い分けてるわけ」 妖しく微笑みながら凛太郎を手招きする。その動きに凛太郎は魅入られたように歩みを進めていた。居間にはいつもの魔物が昼間と同じように拘束されながら四つん這いになっている。 「んー……。だいぶ楽しんで来たみたいだね」 正面から凛太郎の身体を舐めるように見ていく魔物。その目つきに身体の隅々まで透視された気分になってしまっていた。両手で胸を抱えるように、魔物の視線から守ろうとする。 「楽しんだって……別に、そんなの関係ないでしょ」 「まぁ、関係ないけど。体液がね、身体のいたるところに残ってるから、いい匂いが漂ってくるから気になっちゃった。で? 決心はついた?」 決心がつく、それは自分の男の子の人生を捨て去る事と同意だ。実際、修一にどういう裁定が学校側から下るか、それは凛太郎にも解らなかった。しかし警察が入る事になった場合、最悪のケースとして退学もあり得る話なのだ。それを避ける為にどうしたらいいのか、決心をした筈だった。 「ちゃんとついてるから」 修一に迷惑をかけた、そういう気持ちがあるからそれを避けたい、自分に出来ることをしたいというのも本心だった。けれど、一度肌を交えてしまった後には、自分の恋心を失いたくないという気持ちも強くなっていた。ただその気持ちは、自分のエゴ以外の何者でもない事を凛太郎はよく理解している。だから自分の決心がこれ以上揺らがない内に、魔物には行動に移して欲しかった。 しかし小柄な魔物は、凛太郎の心を揺さぶってくる。 「あら。彼は優しくなかった? 彼とのエッチは気持ちよく無かったの? 好きな気持ちが無くなってもいいんだ」 「修ちゃんはすごく優しかったし、優しいし、……えっちだって、よかったし。そりゃ無くなって欲しくないけど、それしか無い気がするし……」 一つづつ修一と今日した事を思い起こす。凛太郎が頬を染めながら不安な気持ちを持ち始めると、室内を凛太郎のマイナスの感情が取り囲んでいく。 小柄な魔物はにやりと口元を歪ませていた。最後の最後で凛太郎の極上のマイナスの感情を引き出しご馳走にありつけたのだから。 「じゃ、もうお別れはしたんだね。さて、では始めるかな」 凛太郎を探るように見つめ、そしてずいっと小柄な魔物が歩み寄っていった。目の前の裸の少女の姿をした魔物に気圧され、凛太郎は一歩下がってしまう。 「えっと、どうすればいいの?」 及び腰になりながらも、凛太郎は尋ねた。 「目を瞑って。それだけ。次に目覚めたら、今の自分は思い出せないよ。最初から女の子だったっていう新しい自分とそれまでの新しい歴史。君を取り巻く全ての人が、関係してきた全ての人がそう思うの。そう、君が女の子になった時、周囲の人が物分かりが良すぎるって思ったでしょ。それと同じ。実はあれもわたし達がっていうか、コヤツが細工したんだけどね」 下も見ずに鎖を「ざらり」と引き、あの魔物の首を持ち上げていた。 凛太郎は瞬きしたいのを我慢しながら、魔物を見据える。 「今度目を瞑ったら、お願いします」 凛太郎は「わんこの修一くん」を両の手で包み胸に当てた。そして大きく深呼吸する。 (修ちゃん、お母さん、笑ちゃん、おばさん、おじさん……お父さん。さよなら……) ゆっくりと目を閉じていくと、大きな渦の中心に引っ張られるような感覚が凛太郎を襲う。自分から何かが剥がされ、そして新たなモノが張られていくような。と、どこかで小柄な魔物の声が聞こえてきた。 「……かわいい君に、ちょっと細工したからね。楽しみにしてて」 それが、山口凛太郎が聞いた最後の言葉だったのかどうかは、本人も最早覚えていない。ただ魔物が凛太郎に言った、という事実が魔物の中と、凛太郎の心の深い部分に残っただけだった。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 「ん、ぁあふ……」 少女が伸びをして眠そうな目を擦りながら身体を起こした。夢見が悪かったせいか、ちょっと身体がだるく感じていた。 (久しぶりに見た、ような気がする……) 実際起きると殆ど覚えていない夢なのだけれど、高校一年生位の時から見始めた記憶はある。その時々で内容が違う気もするけれど、共通しているのは、何か大事なものが消えてしまった喪失感だった。時には泣きながら起きた事もあった。 覚えていないといけない、本当に大事な気持があったように思う。でも、それがなんだったのか、いつも起きると忘れてしまうのだ。この夢を見るといつも横にいる彼の事が無性に恋しくなってしまう。側にいるというのに、浅黒い、しかしつるっとした肌に頬を擦り寄せ、そこにいると言う事を確認してしまう。 彼女は厚い胸板に頬ずりしながら、初めて会った時の思い返していた。中学校に入学して教室で初めて彼を見たとき、懐かしさで胸がいっぱいになってしまった。どこかで出会った事があったのかと思い返してみたけれど、心当たりは全く無かったし、小学校は学区が違った為に接点は無かった。 (あ、なんか久しぶりに思い出しちゃったな。懐かしい……) 引っ込み思案な性格の少女と外向的で明るい彼の接点は、同級生と言う以外には全く無かった。ただ彼女の視線は常に彼を追っていたし、少しでも近づきたくもあった。その感情がどこから来るのか、解り始めたのは高校受験前だった。 少女は本が好きで勉強も出来る方だったから、あまり優秀ではない彼が彼女に勉強の教えを乞う事がきっかけで話をし始めた。きっかけは簡単な事だったのに、それが出来た後と前では全く変わってしまったのだ。彼女の心境が。 彼の話は退屈しなかった。部活の剣道の話が多かったけれど、解らないながらも彼女は楽しかった。近づいてみたい、そういう感情が変化して、もっと一緒にいたいと思うまでにはそう時間はかからなかった。触れてみたいと思うのに費やされた時間はもっと短かった。そして、それが「恋」だと解るまでの時間はあっと言う間だった。 受験する高等学校のランクを彼に合わせた時は、母親とも口論になった。何故かという部分は言えなかったけれど。 (人が結構苦労してるのに、よくこれだけ暢気に眠れるよね) 少女は彼の乳首に軽く爪を立てる。憎々しげにではなく、あくまでもおふざけのレベルで。と、彼がうっすらと目を開いていた。 「……ん、ん? 何やってんだよ……」 「おはよ」 敏感な部位に刺激を受けて、彼が眠い目を擦りながら目覚めていた。目の前のどことなく少年っぽさを残す少女が微笑みながらすり寄ってくる。朝だから、という訳でもないけれど、下半身が張り切ってしまった。 「変な起こし方すんなよ。襲いたくなるだろ」 「え? 昨日あれだけしたのに。元気いいね、相変わらず」 浅黒い筋肉質の彼の身体にぎゅっとしがみつくと、触れ合った部分が熱くなってくるように感じていた。まだこの地方では肌寒い三月。既に大学の合格発表も終わって、新しい生活の準備に追われている、筈だった。お互いの両親公認の仲になっている二人にとって、離れて暮らすというのは考えられない事だったから、結局近場に部屋を借りる事になっていた。しかし、それも引っ越し当日のみで、どちらかと言えば彼女が寂しくなって彼の部屋で同棲を始めていた。 「……まだ夢見るのか?」 「ん、見てると思う、けど。わかんない。……わかるのはすごく修の肌が恋しくなる事くらいかな」 抱きつきながら修一の首筋に軽くキスをしていく。柔らかな乳房の感触が修一の鳩尾辺りに感じられた。 「お前、『修ちゃん、修ちゃん』て言ってた時はすっごく可愛いかったのに。最近エロいぞ」 一部だけギンギンに起きているけれど、まだ眠そうな目をしながら修一が指摘する。 「エロいって……。それって修が色んな事ぼくに教えるから、でしょ?」 ほんのりとピンクに頬を染めて恥ずかしがる凛に、修一はちょっと呆れてしまう。確かに教えたのは修一だけれど、自分からおねだりしたり、「口でする」なんて教えて無い事だって凛はするのに。 引っ込み思案な凛と外に向かう性格の修一。「ショートカットの可愛いコ」と、ある筋では評判だった凛の事は修一も知っていた。勿論、クラスでも中心的存在の修一の事は凛もよく知っていた。いつも誰かと一緒にいる修一と、孤立しがちな凛の接点は無いに等しかった。 どうして付き合い始めたのか、それはクラスでの噂にのぼる程の出来事だった。物静かで引っ込み思案な美少女が、クラスで自分から修一に告白したのだから。凛の心の中でそうしなくてはいけないと言う、ある種の感情が迸った結果だった。 それから程なくして、二人は初体験を迎えた。 「いいけどな。それより随分くすんだな。チョーカー。もっと大人っぽいのプレゼントしてやるぞ」 凛の首元に鈍い光を放つ銀の犬。修一が凛に初めて送ったプレゼントだった。年相応というより子どもっぽいチョーカーは凛のお気に入りだ。 「今度磨く。これって初めて修に貰ったコだもん。大事なのっ。他のなんて別にいらないし」 銀の犬を両手で隠すようにする凛の仕草は、修一の欲望中枢を刺激して止まなかった。今すぐにでも入りたくなる衝動を抑え、肩まで伸びた凛の髪を指先でくるくると巻き取る。その修一のちょっとした動きに凛は心地よさを感じていた。 「なんか、すごく幸せ。――ときどきさ、これって夢じゃないかって思った事ない?」 うっとりした瞳で修一を見つめながら、奇異な事を言い出す。修一は次第に膨らんでくる凛に対する激情を解放しようとしていた。けれど予期しない言葉に抱きかかえようと伸ばした腕を引っ込め、凛の話しに無言で返答を返した。 「ほら、今存在してる自分ていうのが、実は全く違った人が見てる夢の中の人って感じ。それか――同じ人なんだけど別の人生を見てるっていうか」 「……そんなの考えた事ねぇや。俺の中の主人公は俺。お前の中の主人公はお前。夢見てようが夢見ていまいがそうだろ」 不思議そうな顔を見せつつも、修一は自分の説を早口で言った。そろそろ下半身を抑えるのも限界に近かったから。 「でもさ、違う自分がいて、それが本当の「ぼく」で、でもこのぼくも、って、ちょっと――」 くるりと修一が凛の身体を抱き組み臥せてしまった。話に夢中になっていた凛は抵抗も出来ずに修一の顔を見上げる体勢にされていた。時々、ほんの少しだけ、強引に組み臥されると怖いと思ってしまう。こんなに好きで信じているのにどうしてなのか。凛には解らなかった。 「ごちゃごちゃ言わない。夢の中のお前も現実のお前もひっくるめて好きなんだから。ほれ、こんなに」 凛の白い手を取って屹立している自分に触れさせた。熱いと感じる位のそれはちょっとやそっとでは萎えそうも無い位固い。 「あ、すご……。えと、まだ朝なんだけど、するの? ぼくまだ準備できてな」 「もう止まんねぇって。凛の事好きだから何回でもしたいもんな」 「ん……」 柔らかで可憐な唇が塞がれて、もう言葉を紡ぐ事は出来なくなっていた。凛は付き合い始めた頃に夢にまで見た修一の浅黒い肌に包まれ、幸せな気分に浸りながら、もう一人の自分の事を心の中深くに仕舞い込んでいった。 凛の大切な銀の犬が、カーテンから転び入る朝の光を浴びキラキラと光っていた。 <夢見た肌・終> |