日曜日7月5日 陰陽の判定(その2)


 千鶴が出掛けたのは四時近くになってからだった。凛太郎はそれまで飲みたい訳でもないのにミネラルウォーターやウーロン茶を飲み、尿意が来るのを待っていた。若干、いつ千鶴が出掛けるのかと苛々しながら部屋でうろうろとしていた。
「凛ちゃん、行って来るわね」
 階下で千鶴の声がすると、凛太郎は検査キットを手に取り出掛けようとしている千鶴のもとへと階段を下りていった。
「夕食前には戻るから。夕食、作っておいてくれる?」
 ポケットに入れた判定キットを弄りながら、凛太郎が答える。
「いいよ。簡単なの作っておくから。お仕事がんばってね、行ってらっしゃい」
 少しばかりの笑顔を見せるりん太郎に、千鶴はふと後ろめたい気持ちになってしまう。これから修一に会って事の次第を確かめに行くのだ。仕事ではない。それを知ったら凛太郎はどう思うだろうか。しかし千鶴はその思いを断ち切った。これは自分の為ではない、凛太郎の為だからと。
「……はい、行ってきます」
 それだけ言うと千鶴は玄関から姿を消した。
 凛太郎は千鶴の車が動き出て行く音を聞くと、直ぐに玄関の鍵を閉めチェーンロックも施錠した。その足でトイレに駆け込んでいく。もう大分前からトイレに行きたくなっていた。大量の水分を採った事で膀胱はパンパンになっていた。
「ここで漏らしたら大ボケだよね」
 一人ごちながらトイレのドアを開ける。カバーを開け便座に腰掛け、ポケットに入れていたキットを取り出した。手順はもう解っているから楽だ。
 斜めに傾け身体の力を抜くと勢い良く小水が飛び出してくる。多少の調節をしながら必要にして十分な量をかけ終わると、凛太郎はワレメをきれいに拭いショーツもカーゴパンツも穿いて、静かに検査結果を待つ。
(どきどき、する……)
 これまで受けた陵辱の回数を考えると震えが来るほどだ。この結果が陽性だったらと思うと、どうしていいのか解らなくなってしまうだろう。
(線、出ないで、お願いします。これ以上は、もうやだ……)
 今自分の感じている絶望加え、陽性結果が出たらもう一つ上の絶望が待っているだろう。凛太郎は目をぎゅっと瞑っていた。
 一分という時間は短いようで長く、長いようで短い。頭の中で六十を数え終え、凛太郎はゆっくりと目を開いた。そして握った判定キットを見る。
 凛太郎は目の前にある細長く白い判定キット。それを穴の開く程じっくりと見据える。はっきりした一本の線が検査終了を表していた。そしてそれ以外には線は出てこない。
「……良かったぁ、赤ちゃん出来てないんだ」
 キットによる判定は、線が出ていない事から陰性だ。凛太郎は「ほぉぅ」っと深く息を吐いた。と同時に涙が溢れて来る。緊張からの開放とこれ以上の絶望からの脱却、そして安堵。色々な感情がごちゃ混ぜになっていた。
 しかし今後、同じようにしていたらまた不安との格闘になる。どうしても助かる道が見つからなかった。
(もう、なんかどうでもよくなってきちゃったな……)
 暗闇の中を進むような、そんな気持ちが凛太郎の心に去来していた。

 * * * * * * * *

 修一の家に車を急がせる千鶴は、修一の携帯電話に連絡を入れていた。事と次第によっては修一の両親と話を交えなくてはならない。しかし、今の段階ではそれをする事は考えていなかった。まだ凛太郎が本当にそうだと決定している訳では無い。それならば修一に話を聞く事自体がおかしいとも言えるけれど、今の千鶴にはそれを考える心の余裕は無かった。
「もしもし、山口です、凛太郎の母です。悪いけれど、話があるの。そう、どうしても。君もご両親に聞かれるとまずいでしょうから、どこか別の場所で。ええ、今向かっているから」
 激情に囚われた千鶴は、一言でも二言でも修一に言ってやらないと気が済まない。電話でももう少しで罵倒しそうになるところを必死に抑え、冷静を装いつつ諸積家近くの路地に駐車していた。

 千鶴の突然の電話に修一は驚いていた。以前の電話からすれば、もう千鶴と話をする事も無いと思っていた。電話の向こうの千鶴の声は冷静であるようだったけれど、時々声が震えていた。それが激しているからか、悲しいからか、修一には解らなかった。
(今更、どうしたって言うんだ? リンタに何かあったのか?)
 千鶴が修一に用があるとすれば、凛太郎の事に他ならない。突然の電話といい、
「両親に聞かれるとまずい」という物言いと言い、どう考えても良い話では無い事だけは確かだ。
 陰鬱な心持になりながら、修一は家の扉を開けていた。
 修一の顔を見るなり怒り心頭に発しそうな千鶴だったけれど、なんとかその意識を押さえ込んでいた。修一はと言えば、ただならぬ千鶴の形相と雰囲気に少々気圧されていた。千鶴が修一に車に乗るように促すと、静かにそれに従い、移動を開始していた。
 当初千鶴は車の中で話をしようと考えていたが、横に座っている事で身体を捻らないと修一の表情が見えない事や、何より直ぐ近くで修一の存在を感じる事を嫌がり、少し離れたバス通り沿いのファミリーレストランへと車を進めていた。
 店内は日曜だからか、夕方だと言うのに比較的込んでいる。がやがやとうるさい店内は少々大きな声でも掻き消してくれそうだ。話の内容が内容だけになるべく人には聞かれたくないけれど、これなら聞こえないだろう。それに他人の話に耳を傾ける暇人もいないようだ。盛んに自分達の話しに没頭している。
「二名様でいらっしゃますか。喫煙席と禁煙席のどちらになさいますか?」
 パートらしい中年女性が二人を出迎える。最近ではどこの店でも聞かれる言葉だ。
「喫煙で」
 千鶴の言葉に修一は少し驚いていた。自分が憧れていた千鶴は、可愛く、清楚なイメージで、とてもたばこを吸うとは思っていなかった。勿論、山口家に遊びに行った時など、室内にたばこの臭いがした事もない。
「千鶴さん、たばこ吸うんですね」
 修一の正直な感想に、千鶴は一息入れてから答える。
「……そうね、仕事で苛ついてる時とか、怒っている時は吸うわね」
 一部分「怒っている」と言う言葉を強調して言う。千鶴の喫煙暦は比較的若い頃からだったけれど、凛太郎が小児喘息だった為に長い事禁煙していた。しかし理との離婚を契機に再び吸い始めていたのだった。ただ、凛太郎の前ではけして吸う事は無かった。完治したと言っても、たばこの煙は肌にも良くない。
 千鶴は修一の方をちらりと見て席に着いた。その冷たい目つきに修一はどんな悪い話があるのかと考えていた。
 窓際の端のテーブルは若干他の客と隔離されている。千鶴はコーヒーを二つ注文すると、バッグからたばことライターを取り出し、しなやかな手つきで一本取り、火を点けた。深く吸い込みそれを吐き出すと、それが合図かのように話始めた。
「今日、凛太郎がどうして塞ぎ込んでいるのかようやく解ったわ。明日病院に連れて行くけど、最悪、ご両親にもお話させて貰わないといけないわね。一体どういうつもりだったの? あれ程言ってたのに、約束したと言うのに、それを無視してあのコを利用してっ。そんなにセックスしたかったのっ?」
 早口でまくし立てる千鶴の言葉に、修一は訳が解らなかった。
(えっ? 塞ぎ込んでるって、リンタがか? 病院て、リンタ病気に? 親って何の話なんだ? 約束は破ってないし、利用なんてしてない。セックスだって……)
 あまりの事に修一は口を開けなかった。正面を見ると、怒りに震える千鶴が真っ直ぐに修一を睨み付けてくる。
「どうして黙ってるの? 今更あのコを弄んでないなんて言わせないわよっ。さあ、何故約束を破ってまで、あのコを傷つけてまでしようとしたの! 好きだったんじゃないの?!」
「あ、あの千鶴さん、病院て、リンタどこか悪いんですか? それに俺はリンタとセックスなんて一度も」
「とぼけないでちょうだいっ。大方、我慢できなくなって襲ったんでしょ! あのコが裏切られてどんな気持で、どれだけ不安だったか。一人で悩んで、できてたらどうしようかって。自分で調べるなんて……」
 怒りの感情が高ぶりすぎたのか、たばこを挟む千鶴の細い指が震えている。落ち着くためかもう一度たばこを口にした。ふぅっと大量の煙を吐き出す。
 あまりの剣幕に言葉を挟む余地が無かった修一は、千鶴の言葉をもう一度整理していた。凛太郎は病院に行かないといけない、千鶴は自分と凛太郎がセックスしたと確信を持っている、凛太郎は「できてたらどうしようか」と思っている……。これだけのヒントがあれば、鈍い修一でも一つの答えを導き出せた。
(リンタが……誰かとセックスして、に、にんしんした、って事なのか?)
 妊娠までのプロセスを考えれば、修一以外の誰かに凛太郎が身をまかせたという事実が浮かび上がってくる。修一と凛太郎は「していない」のだから。修一はその事に身を固くしながらグラスに注がれた水を注視していた。
(俺じゃない、誰かと……。それが出来そうな奴って言えば……)
 前から好きだったと言う凛太郎の言葉を考えれば、その相手は阿部しか思い浮かばない。修一は奥歯をギリギリと噛み締めていた。
(あいつ、阿部なんかとしたのかよ。俺としなかったって、そういう事だからか?)
「君が原因なの、今のあのコが苦しんでいるのは。いい? 明日ちゃんと調べてから今後の事を考えます。君のご両親も交え」
「ちょっと待って貰えますか。俺はほんとにリンタとはしてないです」
「こ、この期に及んで逃げる気? これだから男って……」
(あの時、情け心なんて出すんじゃ無かったわ。しっかり別れさせておけばよかった)
 まるで汚いものでも見るように、千鶴は吐き捨てるように呟いていた。わなわなと震えている手から、たばこの灰がぽとりとテーブルに落ち崩れる。
「お待たせいたしました」
 微妙なタイミングでパートの中年女性がコーヒーを持ってきた。凍るような雰囲気の中、コーヒーだけが温かそうに湯気を立てている。
「リンタの事だったら、俺は逃げたりしません。俺が原因なら絶対逃げない」
 コーヒーを目の前にしながら、修一が千鶴を真直ぐ見つめる。千鶴は苦々しい表情のまま修一を見据えていた。
「なら、どうしてあのコが自分で検査してるって言うの?」
 半分程長さを残したたばこを灰皿に押し付けながら、千鶴が言った。千鶴の中で凛太郎の相手と言えば修一しかいない。
 修一は少し違う事を考えていた。阿部が好きだったのなら、そして望んでセックスまでしたのなら塞ぎ込む事は無いのではないか。あの凛太郎の事だ、嫌だとなったら絶対拒否した筈だ。何故、そうなるような事になったのか。お別れを言われた時の事を思い返してみる。不自然に赤くなっていた口元、泣きはらしたような目、少し汚れた制服。「転んだ」などと言っていたが、実は違ったのではないか。あの時、何かがあったのではないか。そういう疑念が修一の頭を過ぎった。
(もし、あの時『そう言う事』があったとしたら……いや、でも学校でか? 俺もしそうになったけど)
 しかしそれなら後から阿部と付き合うと言うのはどうしてなのか。無理やりされたなら「付き合う」だの「好き」だの言う筈は無いと修一は思っていた。まさか凛太郎と修一の関係を写した写真で脅されているなどとは夢にも思っていないのだから。
「修一君っ! 何とか言ったらどうなのっ。話す言葉も無いならもういいわ。こちらも然るべく対応させて貰いますから」
 考え込んでいる修一が、適当に誤魔化そうとしているように見えた千鶴は、そのまま伝票を持って立ち上がった。
「悪いけど一人で帰って頂戴。これタクシー代。乗せて帰る程気分よくないわ」
 バンっと大きな音を立てて紙幣を置く。何事かと店内の視線が千鶴と修一に注がれるが、千鶴は何事も無かったかのように、どかどかと大股でキャッシャーまで歩いていった。その音で修一が我に返った。
「あ、千鶴さん、すみませ……」
 修一が立ち上がり千鶴を追おうとしたが、既に店内から姿を消していた。修一は力なくもう一度席に着いた。再度、考えを巡らせて見る。どんな状況でそうなったのかなんて、一人で考えても解る筈も無いのだけれど。
(阿部がリンタを無理やりしたんじゃねぇのか? くそっ、わかんねぇ……。リンタに聞いて、ってあいつが話すとは思えねぇし。後は、阿部か。あのヤロウに直で聞き出すっかねぇな。無理やりってんだったら……)
 大事な親友であり、元恋人の凛太郎。凛太郎が自分以外の誰かをその身体に迎え入れたと言う事は、修一にとっても大きなショックだったし、凛太郎に対して怒りも湧いてくる。しかしそれがもし無理やり酷い事をされたのであれば、話は違ってくるのだ。修一の中で凛太郎は自分から求める事は無いと思っている。だからこそ、今の状況ならば凛太郎自身が望んだ事だと考えていた。しかし凛太郎の意思がどこにも介在される事無くことに及んでいたなら……。凛太郎が塞ぎ込むのも理解出来る。そしてそう考えると、阿部への告白劇も何か不自然だったような気がしていた。
(俺にわざわざ聞かせるなんて、リンタがする訳ねぇよな。誰かに、阿部にそう言えって言われたからか?)
 そう思うと辻褄が合う気さえする。修一の身体中に阿部に対するメラメラと燃える憎悪の炎が膨らんでいた。どんな事をしてでも真相を突き止める、今の修一にはそれだけしか考えられなかった。

 * * * * * * * * *

 取り敢えず危機は脱したと思った凛太郎だったけれど、それが全て解決したという事では無かった。これまで妊娠しなかったのはただのラッキーでしかない。今後同じように蹂躙され続ければその確率は高くなる一方になる。暗澹とした気持ちでいた凛太郎の元に千鶴が戻ってきたのは、夕方近くになってからだった。
 一応の夕食の料理を整えていた凛太郎に、その時点では何も言わずに千鶴は凛太郎との夕食をともにしていた。
 千鶴が時折窺うように凛太郎の様子を見る。特に何も変わった様子も無い事に、千鶴は少々安堵していた。凛太郎は元来ポーカーフェイスではない。何か隠し事をしていれば必ず顔に出ているのだ。今回は、凛太郎が修一と別れた事でその影響が大きいせいで暗い表情を見せていたのだと思っていた。恐らく凛太郎は極力平静を装っていたのだろうけれど、日々重苦しくなる雰囲気は隠しようが無かった。
 それが今日、トイレで検査キットの使用上の注意書きを拾った。千鶴は検査キットの世話になるような事を最近はしていない。残るは凛太郎しかいない。もし、凛太郎が修一の赤ちゃんを身篭っているなら、それを検査キットによって知らされたなら、今の様に普通の顔をして食事を採る事も出来なかっただろう。そこまで凛太郎が図太い精神を持っていない事は千鶴が一番良く知っている。だから、凛太郎が妊娠していないと自分で解っていると解釈していた。
(一応、大丈夫なようね。でもあれだと正確じゃないから、明日病院に連れて行かないと……)
 その事をいつ凛太郎に切り出そうかと千鶴はタイミングを計っていた。

 シャワーも済ませた凛太郎が、部屋に戻って明日の事を鬱々と考えながらそろそろ寝ようかと思っていた時、携帯電話に着信の表示が出ていた。既に十一時過ぎ。修一からメールが来る事は無いと思っているし、メールの主の想像は凛太郎にも容易についた。阿部からだった。
 内容など見なくても解っている。明日も学校に来るように促すメールだろう。送信相手だけを確認した凛太郎は、そのままメールを削除していた。ころんとベッドの上に仰向けになる。つい癖で首元の銀の犬を触ろうとしてしまったけれど、ミシマに盗られたまま。寂しげな気持ちで両手で顔を覆っていた。
(明日も明後日も明々後日も……ずっとずっとヤラレちゃうだけ。元に戻れるんなら、あの前の日まで戻れないかな)
 犬を模ったものは既に身に着けていない。しかし魔物は一向に現れようとしない。犯されたあの日、浴室で会ったのが最後だった。あの時は契約不履行の事など全く思いつかなかった凛太郎だったけれど、今は違う。何か一つでも契約事項を伝えていないなら元に戻して貰える筈だ。修一も傍におらず、野獣のような男達に弄ばれている今の状況なら、元の男に戻る方が修一への恋慕の情を引きずったとしてもずっといいような気がする。それ程苦しいし嫌なのだ。
(でも、男に戻っても修ちゃんとは友達にも戻れないのか……酷い事言っちゃったし)
 お別れを言った日の、修一の姿と表情が忘れられない。あんな修一は凛太郎も初めて見たし、そうさせたのは他ならぬ凛太郎なのだから。不意に鼻の奥がツンとして目頭が熱くなってきた。顔を覆った手と頬の間から涙の筋が光っていた。
 そんなセンチメンタルな状況を、ドアをノックする音が掻き消して行く。
「凛ちゃん、ちょっといい?」
 千鶴が凛太郎にドアの外から声を掛けた。凛太郎はパジャマの袖で涙を拭き取ると、仰向けの状態からベッドに腰掛けた。
「ん、いいよ。なに?」
 千鶴がドアから顔を出す。いつもと変わらない柔和な笑顔を湛えて、凛太郎が座るベッドの横までやってきた。凛太郎と並んでベッドに腰掛ける。
「……お母さんね、色々と考えたの。凛ちゃんが女の子になってから今日までの事。辛い事たくさんあったよね」
 凛太郎は千鶴の物言いに訝しんだ。辛い事、と言っても女の子の服を着たり、女の子だと思われたり、生理が来たり、そんな事はもう辛くは無かった。今、三人にされている事を思えば。そしてその先にある妊娠への不安を思えば。
(お母さん? 何言ってるんだろう。犯された、何て解る訳ない筈なのに)
 凛太郎が伝えていない以上、千鶴にばれるわけが無いと思っていた。辛い事と言っても、ある程度千鶴にも解っていた事だろう。だから修一との付き合いも認めたのではないのだろうか。凛太郎には千鶴の話が、どう繋がっていくのか理解できなかった。不思議そうな目をしながら千鶴を見つめた。
「もっと、たくさん話をして、相談に乗ってあげればよかったって思って……。今日ね、これを見つけたのよ」
 千鶴が凛太郎から視線を外し、ポケットをがさがさと探る。そして細長く折りたたまれた紙を凛太郎の目前に差し出した。
「あっ!」
 凛太郎の小さな口から思わず声が漏れる。妊娠検査キットの使用上の注意。ポケットに入れてトイレから出たと思っていたけれど、それを確認していなかった。凛太郎の顔色が見る見るうちに青くなり、一瞬だけ千鶴の顔を見て、視線を床へと落としていた。膝の上に置いた手でパジャマのズボンをぎゅっと握る。
(ば、ばれた?! お母さんに……ああっどうしよう)
 わなわなと震える唇をぎゅっと噛み締め、どう誤魔化そうかと思案するけれど、一度フリーズした思考は容易にいい言葉を導き出してくれない。何度か息を吸って言葉を吐き出そうとするけれど、音にならない。どうしようも無くなった凛太郎は、大きな目に涙を溜めながら千鶴を見ることしか出来なかった。
(ああ、やっぱり……このコと修一君は)
 凛太郎の様子の変化に千鶴は確証を持ってしまった。千鶴としても目の前が暗くなるような感じだ。
「もう済んでしまった事だから、お母さんも怒ったりしないから。どうせ修一君が無理やりしたんでしょう、解ってるから。ただ、検査キットって簡易のものだからちゃんとした病院で検査してもらお。ね? 明日学校休んで行こう?」
 誰かとしたなら修一だと言う千鶴の言に、凛太郎は思わずはっとしてしまった。修一に迷惑がかからないようにしたかったのに、結局千鶴は修一のせいだと思っているのだ。なんの為に悲しいお別れをしたのか解らない。
「ちっちがぅ、修ちゃんじゃない! お母さん、修ちゃんじゃないから」
 それまで肯定も否定もしていなかった凛太郎だったけれど、口をついた言葉は「誰かとした」事を如実に示していた。千鶴にはそれが修一を庇おうとする凛太郎の心理にしか思えない。
「修一君にされたからって、凛ちゃんを怒ったりしてないのよ。悪いのは修一君なんだから。否定してたけどお母さんには解ってる。だから」
「お母さんっ? 否定してたって、修ちゃん? 修ちゃんに言ったの? 聞いたの?」
 誰に知れても嫌な事だけれど、最も知られたくないのは、やはり修一だ。凛太郎が誰かとえっちしたと知った修一は、どんな心境になったのだろう。
「聞いたわよ。彼には責任があるでしょ。凛ちゃんに酷い事をした償いはして貰わないと」
 ぎりっと音がしそうな程、千鶴の頬の筋肉が動くのが解る。しかし凛太郎はそれを見ている余裕が無かった。
(そんな、修ちゃんに……。僕が汚いのばれたんだ……)
 悲しいと言う気持ちより、怖いと言う気持ちの方が強く凛太郎の心を締め付けていた。穢れた自分を見る修一の目を想像する。もし汚いものを見る目で、昔自分の肌を見て嫌悪感を顕にしたクラスメイト達のような目で修一が自分を見たら。断崖から真っ暗な海の中へ落ちていくような心境になってしまった。
「……どうしてそんな、勝手な事したんだよぉ。修ちゃんじゃないのに、修ちゃんだけには知られなくなかったのにぃ……」
 大粒の涙をぽろぽろと流しながら、千鶴の両腕の袖を力なく引っ張り揺する。全身の力が抜けてしまったのか、凛太郎の腕は千鶴を揺らさず、自分を揺らしてしまっていた。俯いている凛太郎から落ちた雫が千鶴のエプロンに大きく滲みを作っていく。
 漸く、千鶴は自分の思い込みが違っていたのかと思い始めていた。しきりに「修ちゃんじゃない、ひどい」を繰り返して泣いている凛太郎の姿は、とても修一を庇う為に誤魔化そうとしているようには思えない。しかし本当に修一ではないとすると、新たな疑問が千鶴の心に芽生えていた。
(修一君じゃないとして、一体誰と? 修一君に知られたくない相手? 別れた後直ぐに付き合ったって事? それとも……)
「凛太郎、相手は誰なの? 検査結果如何ではその相手と話さないといけないわ。凛太郎一人の問題じゃないのよ? 怒ってないから、言ってごらん」
「ぇあ?」
 千鶴が涙に濡れる凛太郎の頬を両手で持ち、そのまま自分の正面を向かせた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった凛太郎の顔を間近に見つめながら、ゆっくりと凛太郎の返事を待つ。しかし凛太郎の答えは千鶴が全く予期していないものだった。
「いやだっ、絶対言わない! お母さんに言ったらまた修ちゃんに言うんだ!」
 どん、と千鶴の身体を突き飛ばして、凛太郎はそのままベッドから立ち上がった。こんな目つきが出来たのか? と誰しもが言いそうな位憎悪の目付きを持って千鶴を見下ろす。
「あっ?! 凛太郎、お母さんはそんな事」
「お母さんは絶対言う! そしたらまた修ちゃん遠くなっちゃう! もう出てってよ! お母さんなんか大っ嫌いだっ!!」
 恥ずかしさからか、それとも本当に千鶴に対する怒りからなのか、凛太郎は支離滅裂な事を言いながら千鶴の腕を乱暴に持ち、ドアまで引っ立ててしまった。
「ちょっ、凛太郎っ、話はちゃんと」
「もうっ入ってくるなっ!」
 大きな音を立ててドアを閉めると、そのまま内側からロックを掛けてしまった。廊下からどんどんとドアを叩く音が聞こえる。
「凛太郎っまだ話は終わってないのよ! 開けなさいっ」
 いっそうの事、あなたの子どもは輪姦された上に今も脅されて身体を提供させられてます、と言ってしまえればどれだけ楽なのだろうか。しかしそれを聞いた千鶴がどう思うのか、悲しむのか、怒るのか、蔑みの目で見るのか、哀れみの目で見るのか。どのような反応を示すにせよ、それを言う事は出来ない。言ったら何かが変わってしまう怖さがあった。それは凛太郎が修一に知られたくないと思っていたのと同じモノだったのかも知れない。
 凛太郎はそのまま電気をスモールにして、ベッドにノロノロと上がっていった。尚も千鶴が扉を叩いていたから、掛け布団を頭から被って丸くなってしまった。
(お母さんの馬鹿っ。修ちゃんに言うなんて……。僕から先に聞けばいいじゃんか。修ちゃん、絶対汚いって思ってる。もう、触れる事も無いんだろうけど、な)
 浅黒いけれど、つるつるとした修一の肌の感触。それが凛太郎の手に残っている。身体中三人に蹂躙されてしまったけれど、修一の手が触れた所は、それを覚えている。しかし、凛太郎から別れを切り出して、修一の前で告白させられて、修一以外の誰かと「した」事を告げられたのだ。どう考えても修一が凛太郎に触れてくる機会は無いだろう。
 ばれてさえいなければ、もしかしたら時が解決してくれたのかも知れない。けれど、もう知られてしまったのだ。あの唇も、指も、手も、何もかも、凛太郎には遠い存在に感じられてしまっていた。
(修、ちゃん……)
 女の子の咽び泣く声が布団の中に溢れていた。


「月曜日7月6日 怒りと悲しみと」へ)


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