日曜日6月14日 プ〜ルにて(その3)


 三人がフィットネスクラブを後にしたのは、十二時近くになってからだった。あの後、勝負していた訳では無かったけれど修一と凛太郎が競争を始めてしまい、笑は直ぐにプールから上がってしまっていた。ついて行けないという事も勿論あったが、やはり疲労には勝てなかったのだ。
 修一と凛太郎の競争自体は、体力の差で修一が勝った。修一はしきりに「賭けとけばよかった」などと言っていたが、賭けの内容は凛太郎も笑も突っ込んで聞こうとはしなかった。これまでの事を考えると、大体検討がついてしまう。
 大量のカロリーを消費した三人は、ハンバーガーショップへ行って早めの昼食を取った。デートの時のように高級な所へ行くという事はせず、あまりお腹一杯になるような所にも行かなかった。修一も笑も、山口家で既に用意されているだろうパーティ用の食事の事が頭にあったからだ。
 当然と言わんばかりに、修一が凛太郎と並んで座ると、笑は対面の席で一人になっていた。
「あ、リンタ。今日これからリンタん家行っていいだろ。なんか笑が勉強見て貰いたいんだと」
 ダブルバーガーにがぶりと噛み付き、口をもぐもぐさせながら修一が切り出した。修一が笑を伴って凛太郎の家に行くというシチュエーションを考えたとき、これが一番いい方法だと思った手だ。この後どこかに行こう、なんて凛太郎に言われたら断りきれないし、仮に行かないにしても家まで送るなら玄関先でさよならになってしまう。三人で家に入る、という事が必要だった。
「ちゃんと勉強道具も持ってきちゃった。ダメかなぁ」
 サラダを食べていた笑が調子を合わせて人懐こい笑顔を見せる。
「え? それは構わないけど」
 構わないと言いつつ、凛太郎の表情がちょっとだけ曇る。これまで凛太郎が修一の家に行った時、笑が解らないことを聞くという事はあったし、勉強を教える事自体は全く問題がない。水着選びにも付き合ってくれたのだから、その位は何でも無い事だ。ただ一点、凛太郎には気になる事があった。
「……修ちゃん、今日お母さんいるよ。いいの?」
 千鶴が修一との付き合いを不承不承認めてから二人は直接あっていない。それから凛太郎と修一の二人は別に疚しい事をした訳ではないけれど、二人が顔を会わすというのはちょっと不安だった。
「なんだよ、千鶴さんとけんかしてる訳じゃないぞ。三人でプール来てるの知ってるんだから俺だけ行かないのも変だろ」
「それはそうだけど」
 食べかけのハンバーガーを置いてちょっと溜息を吐いてしまう。一応、付き合いは許してもらっているから堂々とすればいいのに、修一が嫌な思いをしたらと思うとちょっと食欲が減退してしまった。
「ねぇねぇ、お兄ちゃんと凛ちゃんのお母さんて仲悪いの?」
 笑がズバッと聞いてくる。それに凛太郎は言葉を濁した。仲が悪いという事ではないのだ。凛太郎にしてみれば、どちらも大事な人だし、双方とも自分を想ってくれている。ただそれが、母親の無償の愛か、異性に対する愛か、それだけの違い。しかしそれこそが問題であるのだけれど。
「仲が悪いって言うか。それはないけど」
「俺と千鶴さんが仲悪い訳ないだろ。そうだったら今日のリンタの誕」
「あ―――――っ!」
 修一の不用意な発言に、笑が突然叫び声を上げた。ハンバーガーショップの店内は、一瞬静まり返ってしまう。勿論、注目の的だ。
「なっなに? どうかした?」
 笑の正面に座っていた凛太郎が、笑の叫びでどきどきする胸を押さえながら聞いてくる。
「えとっ、そのっ、あれよアレ! そうっ耳に入ってた水が出てきたのっ。そうよね、お兄ちゃん!」
 流石の笑も周囲から注目を浴びて頬を朱に染めていた。と同時に、とても苦しい言い訳をしながら、修一に助けを求める。事の起こりは修一なのだから収拾するのは当然だ。
「そうだよなっ、俺もさっき出てきたから叫びそうになったしな。アレは気持ちいいもんじゃないだろ。リンタもそう思うだろ?」
 強制的に同意を求めて、凛太郎の気を逸らそうとする。
「あ、うん、気持ち悪いよね。溜まってると耳が悪くなるから、家に行ったら綿棒使うといいよ」
 真面目に答える凛太郎だったけれど、内心はちょっと違和感があった。
(笑ちゃんの耳の中の事を修ちゃんに同意を求めるって。変なの。それとも兄妹ってああなのかな? お兄ちゃんには解っても、他人には解らない事も解るとか)
 一人っ子の凛太郎は、兄妹の会話など解らない。ましてごまかそうとして適当な事を言ったのだから余計解らない筈だ。変だとは思っても、それは自分の知らない何かがあるのだろうと、一応の答えを出していた。何となく、羨ましい気持ちになる。
 しかし凛太郎が羨ましがるその兄妹は、テーブルの下で思いっきり足の蹴り合いをしていたが。

 * * * * * * * * *

 なんだかんだとテレビの話や雑誌の話題で一時間以上も盛り上がった。その後モールを一回りして、山口家への移動を開始しようとする頃には丁度良い時間となっていた。三人はバスに乗って山口家近くの停留所へと向かった。
 途中、凛太郎は笑にどの辺りが解らないのか聞いていた。学校でもないのに、しかもバスの中で勉強する気が知れないと、修一は二人のやり取りを聞きながら「良くやるよ」と不謹慎な事を考えていた。
 窓を流れる雨を見ながら、景色が移り変わっていく。徐々に街中から郊外へと三人を乗せたバスは走っていった。
 山口家に最寄りのバス停に着くと、凛太郎は少し緊張してしまう。やはり千鶴と修一が顔をあわせるのはどうなんだろうと思ってしまうのだ。横を歩く修一の顔を伺い見ると、何も臆しているようには見えない。ただの取り越し苦労かな、と無理矢理納得させていた。
「さっきの話だけどさ」
 凛太郎が徐に切り出す。さっきの話と言われても修一も笑もどの話なのか検討も付かない。
「修ちゃんとお母さんが仲悪いっていうんじゃなくて、どっちかっていうと僕とお母さんかも」
 意味深な事を深刻そうな顔をして言う。俯きながらぼそっと呟く凛太郎に、笑が並び掛けて顔を覗いた。
「凛ちゃんとおばさんが? どうして?」
 笑が聞きながらも修一の顔を見る。修一も少し困惑したような顔をしていた。
「なんか、普通には話してるけど、ちょっと怒ってるのかもって思って。僕の誕生日って知ってる?」
「……六月十日、だよな」
 突然誕生日の話が出ると修一も笑もどぎまぎしてしまう。今からちょっと遅いけれどそのパーティーをしようとしているのだから。
「そう。いつもはさ、ケーキ作ってくれたり、買ってきたり、食事に行ったりしてたんだけど……。今年は、何にも無かったから。女の子になったから忘れられちゃったのかな」
 千鶴は凛太郎の誕生日もちゃんと覚えているし、用意をしようともしていた。修一がみんなでお祝いしたいと言ってきたから待っていただけだ。事情を知っているだけに、修一も笑も返答に窮してしまう。
「あ、修ちゃんには前にこれ貰ってるし、笑ちゃんは色々教えて貰ってて、それがプレゼントって思ってるし。ごめん、なんか要求してるみたいだね」
 チョーカーについている銀の犬を弄りながら、はにかむような笑みを浮かべる凛太郎だが、修一にも笑にも無理矢理笑顔を見せているように見える。
「そんな事言うもんじゃないだろ。千鶴さんだって忙しいだろうし、それに何か考えあんのかも知れねぇだろ」
「そうだよ。お兄ちゃんは誕生日忘れちゃうかも知れないけど、おばさんはそんな事ないと思うな、ってよくは知らないけど」
 凛太郎と千鶴の仲が悪くなるのは修一も笑も避けたい所だ。なんと言っても、誕生日のお祝いをずらす提案は修一自身がしたのだから、千鶴にも全く悪い所など無い。
「お前、考えすぎだって。千鶴さんが忘れたりする事ないだろ」
「だといいけど……」
 暗い顔をしながら歩いていくと、ようやく山口家に着いた。千鶴の車は駐車スペースに置いてある。
「ただいま。お母さん? 修ちゃんたち連れて来たんだけど……」
 いつもなら千鶴が出てくる筈なのに、今日に限って出て来ない。ただ、家の中は甘い香りがしている。
「あ、修ちゃん、笑ちゃん、上がってね。お母さんいないみたいだし、僕の部屋行こうか」
 振り向きつつ言うと、修一も笑もニコニコとしている。一瞬、千鶴がいない事を喜んでいるのかと複雑な心境になってしまった。
「いや、リンタ。居間に行こうぜ。ソファで寛ぎたいからな」
 ここは誰の家なの? と聞きたくなる位、半ば強引に凛太郎の背中を押して行く修一。それに続いて笑も上がって来た。
 廊下を押されながら歩き居間の扉を開ける。と。いきなり目の前で「パンッ」と破裂音がした。と同時に細い紙テープが宙を舞う。
「わっ?! なにっ?」
「お誕生日おめでとうっ。凛ちゃん」
 目の前でクラッカーを使った千鶴が、満面の笑みを見せている。呆けている凛太郎の背後から、修一が声を掛けた。
「おめでとう。ちょっと遅くなったけど勘弁な」
「凛ちゃんお誕生日おめでと。プレゼントちゃんとあるんだよ」
 なにがなんだか状況を掴めていない凛太郎は、キョロキョロと部屋の中を見回していた。テーブルの上には直径二十五センチ位ありそうなケーキがある。それ以外にもお皿に盛られた一口サイズの食べ物。その奥にはガラス容器に入った紅白の花と、綺麗にラッピングされた箱が置かれている。
「え? あ、誕生日って……でも」
 忘れられていたと思っていた誕生日。四日過ぎているけれど、ちゃんといつものように千鶴が用意してくれているケーキ。嬉しいけれど、でもなんで今日なのか、不思議にも思ってしまう。
「凛ちゃん、修一君がね、平日より休みの時なら集まれるでしょって。日にちは過ぎちゃったけどお母さんもケーキ作りたかったからね、今日にしたの」
「……お母さん、もう、忘れちゃったって……修ちゃんにも、女の子になったから……って言って……ごめんなさい……」
 凛太郎の睫毛の間から、大粒の涙が溢れて落ちていく。女の子になって、修一との事もあって、千鶴はもうお祝いしてくれる気にもなってないのかと思っていた。そんな浅はかな自分の考えが恨めしかった。そして母親を疑った自分が嫌になりそうだった。
 思い返してみれば、千鶴はいつでも凛太郎の味方だった。それを信じきれていなかったのだ。無償の愛はいつも傍にあったのに、それを見ようとしていなかった。自分の不運に託けて。
「なに謝ってるの。謝る事なんてないでしょう。お母さんも十日に一言言っておけばよかったわ」
 柔らかな凛太郎の頬に手を添えて、流れている涙を拭き取っていく。それまで水仕事をしていたのか、千鶴の手は少しひんやりとしていた。
「誕生日祝いなんだから、泣いてたらダメだろ。リンタ、ケーキ食べながらプレゼント見てくれよ」
 修一が背後から声を掛けつつ、ソファーへ動く気配がした。笑も一緒に移動していく。
「これねぇ、お兄ちゃんが選んだんだよ。あ、あたしも出資しました。普通のお花と違ってずっと綺麗に咲いてるんだってさ」
 プリザーブドフラワーを掲げて自慢げに見せる笑。その横で修一が照れた表情を作っている。その顔を見て凛太郎が笑い出してしまった。
「な、なんだよ。泣くか笑うかどっちかにしろよなっ」
 照れ隠しに少し大きな声を出した修一に、凛太郎が答えた。
「だって、修ちゃんがそれ買ってるとこ想像したら……ごめん、笑っちゃって」
 修一が顔を赤くしながら、ぷいとそっぽを向いてしまった。その様子に千鶴も笑も声を立てて笑っていた。

 * * * * * * * * *

 千鶴の手作りケーキを食べて、紅茶を飲む。他愛の無い話題が多かったけれど、楽しいひと時だ。笑の口からその話が出たのは一頻り談笑した時だった。
「凛ちゃん、バラの花言葉って知ってる?」
 紅茶を啜りながら笑が唐突に尋ねてきた。日頃本を読むのが好きな凛太郎だけれど、その方面は皆目検討もつかない。ただ、確か「愛」に関係する事は知っていたけれど。しかし修一のプレゼントの意味が「愛」に関係するという事を千鶴の前で口にするのはちょっと恥ずかしい気がした。
「えっと……、なんだっけ。あとで調べてみるよ」
「えー? お兄ちゃん、教えてあげなよ。色の意味とか」
「あら、あたしも聞きたいわ。修一君、是非、教えて」
 笑がけたけたと笑いながら先に進めようとする。千鶴も少しばかりからかうように聞いてくる。
「なんだよ、リンタ自分で調べるって言ってるだろ。千鶴さんまで……」
「あ、ほんとに自分で調べるから。修ちゃんもいいよ」
 言い難そうにしている修一に、凛太郎が助け舟をだした。しかし修一としても凛太郎にそう言われると、知りたくないのかと思ってしまう。
「……赤いバラは『熱烈な恋』。白いバラは『清らかな愛』。両方一緒にしたら解るだろっ」
 修一はちょっとした反発心もあって覚えた花言葉を恥ずかしそうに言ってしまう。その様子に笑が止せばいいのに囃し立てる。千鶴もニヤニヤと笑っている。
 よくよく考えれば回りは女性ばかりだ。その内の二人にはやし立てられるような状況に修一は居づらくなったのか、勢い良くソファーから立ち上がった。
「ちょっとトイレお借りしますっ」
 大股で居間を出て行く修一の後ろで、笑と千鶴がまた声を上げていた。
「お母さん、笑ちゃん、修ちゃんの事からかっちゃダメだよ。修ちゃん、ちょっと待って」
 凛太郎が千鶴と笑を軽く睨みながら、そのまま修一の後を追っていく。廊下に出ると修一が佇んでいた。
「んと、バラ、ありがと。綺麗だよね。大事にするから」
「ああ。まぁ、そういう訳だから」
 何がそういう訳なのか解らないけれど、修一の心は凛太郎にも十分伝わっている。
「でもさ、チョーカーも貰ってるし、二つも無くてよかったのに」
 実際、凛太郎は「ワンコの修一くん」だけで十分満足していたのだ。身近に修一の存在が感じられるモノ。女の子として好きだと思う前に貰ったものだから、純粋に「凛太郎」に対してのプレゼントとして喜べるものだ。
「いいんだよ。貰っておけば。俺がリンタにあげたいからあげたんだよ。お前、解ってねぇぞ」
 修一が振り返って「しょうがない奴」という風に凛太郎を見つめる。凛太郎は居間と廊下を隔てる扉を一瞥した。
「解ってるってば」
 それだけ言うと、修一の首に手を回して軽く唇を触れさせる。ほんとにちょっとだけ。直ぐ傍に千鶴も笑もいるこの状況で、凛太郎の大胆な行為。それに修一は驚きを隠せない。いつもなら喜んで大騒ぎしそうなところだけれど、今まで見た事もない程に赤くなってしまっていた。
「早く戻っておいでね」
「お、おま」
 凛太郎はそれだけ言うと、硬直してしまっている修一を残し居間へ戻っていった。居間を隔てる扉から三人の笑い声が聞こえてくる。修一はその声を遠くに聞きながら、凛太郎の唇を想っていた。
 おやつから夕食まで、千鶴の料理に舌鼓を打っていた修一と笑が帰宅する頃には、辺りは真っ暗になっていた。
 笑がいるからと、千鶴が何度も送っていくと言うのを修一が固辞し、笑も修一がいるから安心と笑顔で答えていたから千鶴も折れていた。実際には送って貰った方が修一も笑もありがたかった訳だけれど、若干アルコールを帯びていた千鶴に運転させる事は出来ないとの判断があったのだ。
「それじゃ、お邪魔しました。リンタ、また明日な」
「お邪魔しましたぁ。凛ちゃんまた遊ぼうね」
「うん、また明日。今日はありがとう」
 ニッコリと二人に微笑む凛太郎に、千鶴がそっとその肩に手を置く。
「修一君、またいらっしゃい。笑ちゃんもね」
 二人が傘を開き玄関から出ようとした所で千鶴が言う。意外だとばかりに凛太郎が千鶴を振り返った。
「はい、また是非」
「はぁい、また来ますね」
 去っていく二人を見ながら、凛太郎が呟いた。
「今日はびっくりしたよ。お母さん、修ちゃんの事ちょっとは見直した?」
「熱意はね。まあまあかしらね」
 妹とふざけ合いながら遠ざかる修一の背中が闇に紛れるまで、凛太郎と千鶴は眺めていた。


(「土曜日6月20日 暗い部屋」へ)


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