日曜日6月7日 でえとっ(その1)


 …………。
 遠くで目覚まし時計の鳴っている音が聞こえる。居心地の良いベッドの中はぬくぬくとしていて、中々起きられない。凛太郎は次第に覚醒していく意識の中で、今日は何の日? などと考えていた。
(……ん、あさ……、くろい、かげ? ……? ……?? …………………………あっ待ち合わせっ)
 何か、嫌な夢を見たような気がしたけれど、覚醒するに従いその記憶が薄れて、入れ替わりに今日と言う日の行動を思い出していた。
 手早く布団を畳むと、大急ぎで階下へ降りていく。何はともあれ先ずはトイレへ。
「はぁ……」
 と、ちょっと幸せそうな溜息を吐いてから、キッチンへ。昨日の夜に用意していた朝食用のオカズをレンジへ入れ、その間にお味噌汁を火に掛け、取って返して茶碗を用意した。暫くすると味噌の温まる匂いが辺りに充満してくる。沸騰する直前で火を止め、おたまでお椀に注ぐと、レンジのオカズも丁度良く温まった事を知らせていた。
「いただきます」
 誰もいないけれど、一人の時も挨拶をするのは凛太郎の癖だ。言う事で行動の区切りをつける事が出来て、だらだらした生活にならずにすむと思っているし、何より一人でいるという事を誤魔化せる気がしていた。
 食べながらTVを点けると、もう七時十五分だ。食べ終わって、シャワー浴びて、服を着て、バスで駅まで。結構時間が無いかも知れない。
 凛太郎の家から駅前まで自転車で三十分から四十分。家からバス停まで歩いて二分。バスだと定時で行けば二十分、渋滞だと三十分程度。ただ休日の時刻表は良く知らなかったから、自転車と同じ位かかるかも知れないと考えている。しかも今日は雨だから、バスが遅れてくる可能性もあった。
 何故今日に限ってバスで行くのかと言えば、それは千鶴が持っている自転車に対するポリシーのせいだった。それは「自転車乗るのに傘を差してはいけない」と「無灯火で自転車乗るな」。だから雨の日に自転車に乗るならレインコートを着るか、自転車に乗らないかの二者択一なのだ。凛太郎は小さな頃から言われていたので特に変だとは思っていなかったけれど、高等学校に上がってから、誰も彼も傘を差して自転車で登校してくるのはちょっとしたカルチャーショックだった。しかし長年培って来た習慣は凛太郎の中でもポリシーとして息づいていたので、雨の日にはバスを使って登校している。
 そして今日は凛太郎の初めてのデートにして、女性化して初めての雨の日、になった。それにバスを使う理由はもう一つあった。仮にレインコートを着ていった場合、濡れ鼠の姿で修一と会うのは可愛くない気がする。もし、ポリシーに逆らって傘を差して行ったとして、それこそずぶ濡れで、べたべたに服が身体にくっついて、泥はねでも被った姿になったら、泣きそうを通り越して笑うしかなくなってしまう。なるべくいい状態で修一に会う為には、バスという公共の乗り物が一番いい選択だった。
 ちなみに、駅には諸積家からの方が近い。山口家と諸積家はそれ程遠く離れている訳ではなかったけれど、バスの路線が異なり、山口家から駅までは13番系で、諸積家からは51番系だった。その為バスで凛太郎と修一が鉢合わせになるという事はない。
 雨のせいでバスが遅れ、渋滞に巻き込まれた事を考えると駅まで四十分位を見た方がいいかも知れない。そうなると。
 凛太郎はもぐもぐとご飯を頬張りながら逆算していた。
(今、七時十六分か。九時半だけど、九時二十分には着いておきたいし……。八時半には家でないといけないじゃんか。うあ、もう一時間しかないの? 早く済ませないと)
 何でも時間には余裕を見て、現地でゆっくり出来る位早目に着いてしまうのが千鶴と凛太郎だった。修一と笑と三人で図書館に行った時のように、凛太郎が遅れると言うのは全くと言っていいほどない。今日にしても、バスの時間を相当さば読みしているから、恐らく早目に着く筈だった。しかし本人としてはギリギリになるかも、という強迫観念にも似た心理が働いているのだけれど。
 男の時と同じようにがつがつとご飯を口に詰め込んで、お味噌汁と冷たいお茶で胃に流し込んでしまう。まだ口の中にご飯が残っているのも構わず、リスのように頬を膨らませたまま、食器を流しの桶に漬けておく。
(う〜食器洗ってる時間もったいないな。帰ってからでいいか)
 いつもの日曜なら食後直ぐに食器は洗ってしまうけれど、今日は千鶴もいないし、デートだし、少しだけ怠ける事にした。

 * * * * * * * * *

 いつもより妙に念入りなシャワーを済ませると、ほこほこと上気した顔で自室まで上っていく。既に時刻は八時十分になろうとしている。
「ぎゃあ、時間ないじゃんかっ。着替え着替えっ!」
 ちょっと前まではブラジャーなんて着けるのに凄く度胸が必要だったのに、最近は着ける事自体に抵抗は無くなった。けれどそれは女の子の身体に対する慣れと言うよりは、習慣として身に付いたものだ。下着姿を学校の体育の授業で女子に見られるのはやはり抵抗があるし、自分のそんな姿を鏡で見ると妙な興奮を感じてしまい、自分は変なんじゃないかと思う事も変わりは無かった。ただ今日は、いつもより時間が無い事と、修一とのデートという精神の高揚が凛太郎にそう言った感情を覚えさせなかった。
 グレーのフリルつきVネックカットソーを被り、ソックスを足に通す。先にスカートを穿いてもいいのだろうけれど、凛太郎はスカートが捲くれるのが嫌でそんな順番にしている。その後は白いティアードスカート。まだ終わった訳ではなかったので濃い目のブルーの生理用ショーツを穿いている。千鶴の部屋まで行って鏡で後姿をチェックした。
「……ん、映ってない、かな? 大丈夫そう」
 そのまま再度自室へ戻って、ボレロ風のカーディガンを着込む。カットソーのフリルがちゃんと出ているか手で入念にチェックしてから、一本ストラップのディバッグを掴んで階段を駆け下りていった。
 ガシュガシュと歯を磨いて鏡に向かってニーッと笑ってみる。赤い唇から整った歯並びの白い歯が零れ、赤と白のコントラストが奇麗に見えた。
「よしっ、おけっ!」
 時計を見ると八時二十分を回っている。凛太郎は急いでバッグの中身のチェックをした。
「財布、携帯、修ちゃんの予定表、ハンカチ、ティッシュ、ポーチっと。中身も……ちゃんとあると。あとは……。濡れた時用にタオルいるかな」
 洗面所に置いてあるタオルを取って、バッグに入れる。準備完了、とばかり玄関へ急いだ。
「えーっと、ガスの元栓見た。電源も切ってる。戸締りは、夜から開けてないから平気と。鍵はここにある」
 ブーツを履いて編み上げの紐をぎゅっと締める。身体も引き締まる感じを覚えながら、出かける前の確認事項を思い出していく。
「うん、大丈夫。では、行ってきます」
 ディバッグを斜がけにして、鍵を握り締めながら、男物のダークブルーの傘を持って玄関を出て行った。丁度八時半になろうとしていた。

 * * * * * * * * *

 外は梅雨の雨らしく土砂降りではないものの、結構な雨量があった。傘を叩く雨音が結構鬱陶しい。凛太郎はスカートが濡れないように気を付けながら、早足でバス停まで来ていた。既に同い年くらいの男女と中年女性が一人待っている。待っている人を尻目に時刻表を覗き込んでみると、次のバスは八時三十八分発。時間どおりに来ればあと五分もしたらバスの姿が見える筈。
 黙って列の後ろに着くと、時折先頭の男女がちらちらと凛太郎の方を見て来た。もしかしたら同じ学校の生徒かもと思うと凛太郎は少し居心地が悪くなっていた。ちらっと直ぐ前の女性を見ると、こちらも偶然なのか目が合ってしまった。
(そんなに変な格好してるかな……。もしかして元々男って知ってて……)
 誰も彼も自分の元の姿など知っている筈が無い、ただの考え過ぎだと思おうとしても、振り返って凛太郎をじろじろ見る目つきは、まるで値踏みするようだ。上から下まで。特にスカートから出た足に視線を感じてしまう。凛太郎はなるべく気にしないようにしながらも、差している傘を斜めに倒して相手の視線を見ないようにしていた。
 実際にはただ単に、可愛いコだなと思っているに過ぎなかったのだけれど、普段からアトピーを気にし過ぎていた凛太郎に取っては、人の目には敏感だった。それが女性化してからは、肌ではなく自身の存在そのものに過剰に反応してしまう。いつもは修一と一緒で修一に集中していれば他人は目に入らなかったし、場所も学校という限られた人間しかいない閉鎖空間だから、ある程度は慣れたし気にしないようにしてきた。しかしたった一人で、知らない他人と一緒にいる、その視線を敏感に感じてしまうという事は、凛太郎に取って不幸だったしストレスともなっていた。
(早くバス来ないかな。なんか視線感じてヤダよ……)
 手で持っている携帯の時計を見ると八時四十分になっている。雨のせいなのかやはりバスは遅れていた。俯きながら道を通り過ぎていく自動車の音に耳を欹てていると、ディーゼルエンジンの音が聞こえてきた。凛太郎は首を捻って音の方向を見ると、13番系の表示がついたバスがやって来た。
(ふぅ、やっと来た。今からだと着くのは……丁度十分前くらいかな)
 道から見上げるバスの窓には、既に立っている乗客が見える。大概の人は駅まで行くのだろうから、座るのは不可能だろう。
 駅までは190円。凛太郎はディバッグから財布を取り出しバスカードを用意して乗り込んでいった。案の定、席は全て埋まっている。凛太郎を含めて五、六名がティーンで、後は中年以降の人たちだった。
 バスのエンジンが唸りを上げ、ギアをかえる度に「カチッ」と音がする。静かな車内でその音だけが響いていた。

 * * * * * * * * *

 梅雨の天気の為に渋滞があるかと思っていた凛太郎だったが、そんな心配は不要だった。スムーズな流れは最初の遅れを除けば、凛太郎を乗せたバスをほぼ三十分で駅へ運んでいた。
(ありゃ、早く着きすぎちゃった。まぁ遅れるよりはいいかな)
 凛太郎が携帯の時計を見ると時刻は九時十分過ぎ。少し早いとは言いつつも早過ぎる程では無かった。
 待ち合わせ場所は、図書館へ行った日曜日と同じ駐輪場の前だった。バス停とは駅を挟んで反対側になる。ぴちゃぴちゃと水溜りの水をはねながら、駐輪場まで歩を進めた。
 駐輪場に着くとグルっと辺りを見回す。けれど、やはりと言うかまだ修一の姿は無かった。ちょっと溜息を吐いてしまう。
(こういう時って普通は早めに来てるんじゃないっけ? いつも僕の方が早いからいいけど、ほんとの女の子じゃないからって、なんだかなぁ)
 女の子だけれど男だし、でも女の子だと思われてないと思うと少し悲しいような、変な意識が出てきてしまう。お互い好きだと言った時点で、凛太郎の中で一応の決着を見た筈の問題だったけれど、時折その意識が頭をもたげて凛太郎の気を乱していく。
(修ちゃん、なんで来るんだろ? 自転車って事はないか、濡れちゃうもんね。やっぱりバスかなぁ。そしたら来る方見てた方がいいか)
 もしかしたらメール来るかも、と携帯を気にしながら、自分が来た元の道に向きなおした。時折、駅の高架をくぐって来る人影が見えると、凛太郎は修一かもと心を躍らせてしまう。でもまだ九時二十分。修一の姿が現れる時間ではない。大体修一は時間ピッタリに来るか遅れてくるタイプだ。本人はマイペースなどと嘯いているが、実際上は時間にルーズなだけ。凛太郎もそういうところは好きではなかった。
 次第に駐輪場へやって来る人影が増えてくる。ある人はちらっと、またある人は無遠慮に凛太郎を見ていく。一応可愛く着飾った女の子が、少し不安げな表情で駅を見ていれば男連中としては気になってしまう。それが特に美少女と言える女の子であれば尚更だ。ただそう言う視線は凛太郎にとって針のように突き刺さる。
(なんでじろじろ見ていくかな。感じ悪いよみんな。バス停でもそうだったし)
 凛太郎は見られていると解るとぷいと横を向いたり、違う方向へ身体を向けたりしていた。そしてそんなに格好が変なのかとまた思ってしまう。
 俯いて自分の服装を見てみる。スカートが捲れているとか、雨に濡れて透けてしまっているとか、襟がカーディガンに引っ掛かっているとか、そんなところを気にして。しかしどれも当て嵌まらない。安堵と同時に何故見られるのか疑問が残った。
 そうこうしている内に、約束の九時半にあと二分となった。六月とは言え、昨晩からずっと降っている雨は大気を冷やしている。カーディガンを着てきたから上半身はまだ良いとしても、傘でカバーし切れていない足元は時々雨粒が当たってくる。少しづつ身体が冷えてきた。
(なんか寒くなってきちゃったな。修ちゃんも早目に来ればいいのに。…………トイレ行きたくなってきた、どうしよ……)
 ぶるっと身体が震える。今までじっと待っていたけれど、堪らなくなってそわそわと身体を動かし始めた。
(九時半……。遅刻だよっもうっ。メールメール)
 徐々に不機嫌になりつつある自分の心を何とか押し留めて、凛太郎は修一に簡単なメールを出した。
『どこ? バス? こっち駐輪場』
 駐輪場から高架下までテクテクと歩いて、雨露を凌いだ。よくよく考えたら高架下で待っていれば雨に濡れずに済む。改めて凛太郎は高架下で待つ事にした。
 傘を畳んで恨めしげに雨空を見上げた時、修一からメールが届いた。
『バス もうちょっとで到着』
 凛太郎が携帯で時間をチェックすると、九時三十五分を回っている。この町のショッピングモールへは駅前からシャトルバスが二十分置きに運行されている。一時間に三便あるけれど、そろそろ人も車も多くなってきている時間帯だし、もしかしたら十分では着かないかも知れない。
 映画はアクションものが十時十分開始。恋愛ものが十時十五分、娯楽大作が十時半。凛太郎が一番見たい映画は十時半開始の娯楽大作だ。七部作の最終話で、これまで全て劇場で観ている。何としても逃したくない。その次がハリウッドアクションもので、修一が何故か見たがった恋愛ものは凛太郎のプライオリティでは最後だった。
(一番観たいのが三十分からだからまだ時間あるか。バス停で待つって手もあるけど、雨に濡れるのヤダしここにいよっと)
 まだ少し(実際にはたっぷり)時間があると思うと少し気が楽になる。駐輪場側から駅側へ高架下をバス停が見える所まで歩き始めた。と、駅前を動く傘の群れから、一つだけ激しく上下しながら移動してくる傘がある。
(あっ、やっと来たっ)
 大きな水溜りを避けながら、走って近づいて来る修一の姿が目に留まった。
(う〜、遅いって文句言ってやるっ。冷えたっ)
 苦笑いを浮かべながら修一が凛太郎の傍までやって来た。ベージュのチノパンに真っ青なポロシャツ。上着にはグレー地のウィンドブレーカー。胸元に「Pearly Gates」なんて書いてある。短い髪もどこと無く纏まっている。いつものむさ苦しい格好とは程遠い修一に、凛太郎は戸惑ってしまった。
(……なんか、かっこいい? かな?)
「悪ぃ、待っただろ。ちょっと寝坊した」
「待っ………………てない……。さっきメールの時来たから」
 遅れて来た理由が寝坊なんて、自分から誘ってるのに、こっちは三十分くらいまって身体冷えて、トイレに行きたいの我慢した、と色々言おうと思っていたのに、言葉が出なくなってしまった。頬が火照ってくるのが解って俯いてしまう。
(あ〜あ〜何言ってんだよぉ、もぉ)
「そうか? なら良かったわ。………………う」
 全然悪びれずニッと笑う修一だったけれど、凛太郎の立ち姿をまじまじと見て言葉を詰まらせてしまう。
(すげー、可愛い……。フリフリが女の子って感じ)
「なに?」
 視線を感じた凛太郎が修一を見上げる。その眉根を寄せて尋ねる表情も可愛らしい。修一は鼓動が激しくなって身体が燃えるように熱くなるのを感じた。それでも視線は外さないけれど。
「いやっ、その、あれだよ、ほら、……」
「あれって? これ、変かな……」
 言い澱む修一に、凛太郎はきっと変なかっこって思ったんだと一人で勘違いして、少し落ち込んでしまう。それが如実に声色と表情に表れてしまった。
「変じゃねーよっ。すっげぇ可愛いって! やっぱリンタって可愛い!」
 大声で高架下で叫ぶ修一に、凛太郎は慌てて止めに入った。とにかく「可愛い!」という声が響き渡って恥かしい。
「ちょっ修ちゃん、わかったからっ、大声出さなくていいってば。恥かしいじゃんか」
 時折通る人たちが、若いカップルの方を見ながらクスクスと笑い通り過ぎていく。余り衆目に晒されたくない凛太郎としたは、たとえ修一が自分を褒めてくれているにせよ居心地がいい筈は無かった。
「……」
「……修ちゃんも、今日は、かっこいいよ。パンツ慌てて拾ってた人と同一人物とは思えないくらい」
 くくっと笑いながら凛太郎が小声で言う。修一は最初意味が判らずきょとんとした表情を見せていたが、直ぐに真っ赤になった。
「なっそれっ言うか普通っ。お前だって濡……まぁいいや。時間無いし行こうぜ」
 濡れ濡れだったろう、なんて流石に修一でもこの場に相応しくない言葉だと理解していた。言いそうにはなったけれど。
 何を言いかけたか凛太郎にも解ったけれど、敢えて突っ込む事は無かった。折角のデートなのに詰まらなくしたくない。大体自分で仕掛けたのだし。
「……はいはい。あ、っとその前に、僕ちょっと……」
 凛太郎は軽く返事を返した。けれど待ち時間の間に冷えた身体が、どうしてもトイレに行けと言っている。言葉を濁しながらそれを修一に伝え駅の方へ歩き始めた。
「トイレか? 駅のって紙ないかも知れないからちゃんと持ってけよ」
「!」
(ま、周り人いるのにっ。馬鹿修っ!)
 凛太郎は真っ赤になりながら修一を振り返り、キッと一睨みしてから踵を返して雑踏の中に姿を隠して行った。

 * * * * * * * * *

 シャトルバスの停留所は駅前にあるのだが、通常の路線バスの邪魔にならないよう、少し離れた場所にある。駅前の大通りに面しているけれど、背後には屋台が建ち並ぶ場所にあった。他のバス停と同じように雨が凌げるようになっているのはありがたい。
 九時五十分前になって、凛太郎と修一はシャトルバスの停留所までやって来ていた。バス停には既に十人程度がバスを待っている。既に直前のシャトルバスは発車した後。次は十時にならないと来ない。この時点で十時十分のアクションものは観られなくなった。
「映画だけどさ、」
 並んでバスを待つ凛太郎が、ちょっとだけ修一を見上げる。編み上げブーツのお陰で、いつもよりちょっと背が高い。修一の顔が少しだけ近いのは新鮮な感覚だった。
「修ちゃん観たいのってあるの? 最初のは着いたら始まってる時間だからもう観られないし」
「ん〜、俺は何でもいいけどなあ。敢えて言うなら、」
 修一は言いながらちょっと周りを見回して、風上に立った。その隙に凛太郎が話を続ける。
「あれでしょ、今回が最後のシリーズだもんね。前から僕も観たかったし。修ちゃんが恋愛モノってのも変だもんね」
 にこにこしながら言われると修一も返答し辛くなってしまう。イギリスの児童文学をベースにしたシリーズものより、実は恋愛モノが観たかったのだが。それに予定表を渡した昨日、観たいと言っておいた筈だったが。
(……俺だって恋愛モノぐらい観たいって。リンタが一緒なんだから。まぁ、いいか。これだけ喜んでるし。俺も楽しいし)
 横で楽しそうにシリーズの最初からストーリーを話始めた凛太郎を見ながら、修一は目を細めていた。
「でさ、あそこで魔法使うって言うのが……。何? じっと見て。なんか付いてる?」
 修一の視線に気づいて、凛太郎はしきりに顔を触り始めた。トイレで鏡を見た時は何も無かった筈だけれど、何かが付いているのかと思ってしまう。顔を擦る凛太郎の手を、修一がそっと手を添え止めた。
「あぁ、何も付いてないって。わりぃ。ただ……、」
「ただ、何?」
 訳が解らない、と言うように多少怪訝そうな顔をしながら、凛太郎が問う。それに修一が答えた。
「可愛いなぁ、と思って、見てた」
 にっこり微笑みながらの修一の言葉に、凛太郎は茹蛸のように身体中真っ赤に染め上げてしまった。おろおろと周りを見回しながら、半開きの口がパクパクと何事かを言おうとしている。シャトルバスを待っている一同はと言えば修一の話を聞くとも無しに聞いてしまい凛太郎と修一の方を一斉に見てしまう。そんな視線に凛太郎は何とか堪えつつやっと声が出た。
「しゅしゅ修ちゃんっ? こっこういうとこで言うもんじゃ……」
 雨の雫が凛太郎に当たったらきっと直ぐに蒸発するだろう、その位赤い顔をしていた。
「お、バス着たぞ」
 どこの誰が発注したのか知らないが、ダブルデッカーの上を取り除いたような赤い派手なバスが目の前に迫ってくる。バス停に並んでいた一同も修一の言葉に呼応したかのように二人から目を離し、バスへ注目していた。
 凛太郎は取り敢えず安堵の溜息を漏らしてしまった。何もこの場で言う必要は無いだろうと思ってしまう。可愛いと言う事自体はいいのだけれど、人前ではどうかと思ってしまう。ふと修一を見上げると、そんなの事は全く過去の事という風に気にしていないようだ。
(僕もこれ位度胸があった方がいいのかな)
 別に修一に度胸があるのではなく、ただ恥知らずなだけなのだが、凛太郎には自分の性格では出来ない事をこなしてしまう修一が羨ましく思えた。

 * * * * * * * * *

 13番系のバスと同様に、モールまでの道も混んではおらずスムーズにシャトルバスは所定の場所に停留した。凛太郎も修一も早足で二階にあるシネコンプレックスまで歩いていく。思った通りバスが着いたのは既に十時十分を回ってしまっていたから、アクション映画は観られない。凛太郎の要望通りに娯楽大作を観る事になった。モール内に入りシネコンへのエスカレーターに乗った。
「もう、チケット売り切れてたりして」
 凛太郎が感じていた一抹の不安を修一にぶつけてみる。十時半のチケットが売り切れていたら次回のチケットを購入して、ウィンドショッピングするか、ゲームセンターで時間をつぶすか、喫茶店にでも入ってだべっているか位しかない。
「ん? 大丈夫だろ。いくらなんでも朝一からはないだろ」
 暢気な調子で答える修一の目に、シネコンの入り口付近が見える。
「うっ、なんだありゃ」
「何?」
 エスカレーターで徐々に視界に入ってくるシネコン入り口。若いカップルや小学生くらいの子どもを連れた家族がごった返している。
「あ〜あ。すごい混んでるよ」
 凛太郎が呆れたように修一を見る。修一は凛太郎の方を見ずに自分に言い聞かせるように言った。
「いや、まだ満員て決まってねぇだろ。モニター見てくるから、お前ここにいろよ。あったら呼ぶから」
「あ、一緒に、」
 一緒に行くと言おうとしたのに、修一はそのまま人の波に果敢に入っていってしまった。
(なあんだよ、一人モニター見て、一人チケット売り場に並んでればいいじゃんか。益々人が多くなっちゃうのに)
 こりゃ次の回かな、などと思いながら、凛太郎は仕方なく壁際の映画のポスターを見ていく。五分もすると見飽きてしまい壁際に背中を凭れて佇んでいた。
 シネコンの入り口を見るときらきらと目を輝かせた子どもが両親と手を繋いではしゃいでいる。傍から見ると暖かい家庭、に見える。内情は解らないけれど。凛太郎は記憶の中の理と千鶴を思い出していた。
(小ちゃい頃はああやって遊びに行ってたなあ。あの頃ってお父さんもかっこよかったな……)
 理の事を思い出すと途端に胃の辺りがぎゅうっと痛くなる。考えるんじゃ無かったと思いながら、ディバッグから携帯を取り出した。時刻は十時二十分になろうとしている。
(映画の前にトイレ済ませとこ……。メールっと)
『よんどころ無い理由で中座 すぐ戻る』
 直接トイレなんて書いたらまた言われそうだと思い、少し言葉を選んでみた。修一が解るかなんて事は考えない。送信しようとした所に都合よく修一が戻ってきた。
「いや〜すげぇ運がいいぞ俺たち。あと五席しか残ってなくてさ。ちょっと前の方の端だけどいいだろ?」
 どことなくよれよれになっている修一が明るく言う。前の方とはどの辺なんだろうと思うけれど、一番前でなければまずまずだ。
「一番前じゃないならいいよ。で、僕ちょっと」
「あ、リンタ。俺も行くわ。それとチケット一応持っとけよ」
「はい、ありがと。じゃ後で」
 小さなチケットを手渡すと、凛太郎も修一もそれぞれの場所へと入っていった。

 * * * * * * * * *

 トイレを済ませて出てくると、もう入場が開始されていた。凛太郎は慌てて入場口へ行くと既に修一が腕組みしながら待っている。
「遅ぇよ。パンツ下ろすだけなんだからそっちの方が早いだろ」
「! ……いろいろあんのっ。そっちこそ外に出すだけじゃんか」
 ちょっとぎりぎりの会話をしながら劇場内へ入っていく。このシネコンは劇場が七つあって、4番と5番が最も集客人数が多い。その他の五つはどれも似たり寄ったりの人数設定だった。今日観る予定だったアクションは5番、恋愛モノが7番、娯楽大作が4番だ。シネコンで待っていた人の殆どはこの作品を観に来たのだろう。まだがやがやとうるさい劇場内を席を探しながら歩いていく。
「Fの4、と。エフえふF。修ちゃんは3? 5?」
「俺のは3」
 かなり前の方で端の方だけれど一応観られる。銀幕が斜めに見えるけれど。
 シートを下げて一緒に座ると、凛太郎は再びシリーズの見所を修一に話始めていた。程なくして場内が暗くなってスクリーンにコマーシャルが映りだす。と、肘掛に置いていた凛太郎の手に、何かが触れる。びくっと反応して左手を見ると修一が手を重ねていた。
「何?」
 用があるのかと思い修一の方に上体を斜めにして顔を近づけ小声で聞いてみる。修一も同様に体をずらしてきた。
「何でもねぇよ。手、握ってるだけ」
 にこにこと笑う修一に、ちょっといつもと違う雰囲気を認めざるを得ない。凛太郎にはデートだという事で舞い上がっているようにも見えた。
(……なんか今日は妙に積極的な感じだな。まぁいいけど)
 修一に重ねられた手をそのままに、凛太郎も肯定の笑みを返した。そして映画が始まった。

 * * * * * * * * *

 映画が始まって暫くしてから、修一の手がもぞもぞと動き始めた。修一の中指が自分の中指と人差し指を交互に撫でて来る。くすぐったさはそれ程でも無かったから放って置いたが、次第に中指と人差し指の付け根、水かきの部分を上下にさすってくる。最初凛太郎はその動きが良く解らなかったが、ゆっくりとさするその指の動きは、凛太郎にある事を思い起こさせていた。
(なんか、ちょっと……。動きがえっちいんだけど……)
 丁度自分の身体の中心を触られているような、そんな動き。凛太郎の考えすぎだと言われればそれまでだったが、修一の人差し指と薬指が凛太郎の人差し指と中指を広げ、そこへ中指を折れ曲げて少し強めに撫でた事で確信した。修一は凛太郎の手をアソコに擬えていたずらしていると。
 時折静かになる映画だったから、あまり声も出したくない。凛太郎はされるがままにしておいた。けれど、指の動きが脳内で秘裂を弄られる快感を揺り起こしてしまう。想像などしないで映画に没頭しようとすればする程イメージが大きく膨らんで来てしまう。
(あ、やだな。少し、身体変、かも)
 居心地悪そうに凛太郎が身体を揺する。少し身体が熱くなりそうになった時、凛太郎は意を決して修一の方を見た。
「ちょっと、やめてよ……」
 身体を修一側に倒して小声で抗議しながら、修一の手を振り切り左手を膝の上に移してしまう。修一はその抗議を聞き入れたのかそれ以上は追って来なかった。ほっとして再び映画に集中し始めた。
 その後の一時間ちょっと、修一は凛太郎に何もして来なかった。

 * * * * * * * * *

 エンディングが流れ、スクリーンにエンドロールが流れていく。凛太郎も修一も映画は最後の最後まで観て行くのが習慣だった。映画の中にはエンドロールが終わってからも映像を隠している事もあるし、稀に名前の通った役者の名前を見つけたり、意外な役者の名前を見る事が出来るから。尤も修一の場合は、凛太郎がそういう楽しみ方をしているのを聞いて真似しているだけだったが。
 じっと英語の名前を見ている凛太郎に、修一が話かけてきた。
「面白かったなあ。この映画で正解だった」
 変な笑みを浮かべながら凛太郎に同意を求めるように言う。しかし凛太郎はそれには答えず、目を半開きにしてじっとりと修一を睨む。修一はと言えば、何も悪い事をしてないぞと言いたげに凛太郎を見つめた。
「修ちゃあん。何あれ?」
「あれってなにが?」
「ゆびっ」
「……ああ、なんとなく、なんだけど。嫌だったか?」
 嫌だと言われるなんて露ほども思ってない風に修一が聞いてくる。凛太郎は軽い眩暈がしたように思った。手を握るならともかく、モロに性的なイメージを髣髴とさせる事をしておいて、嫌だったかもないだろう。しかも悪気は全く無いのだから始末に悪い。
「ああいうのもうやめてよ。変だよ。もう映画来ないよ?」
 半分本気で言っているのだが、通じているのかいないのか良く解らない。映画に誘ったのも、実は暗がりでいたずらしたい為だったんじゃないかと疑いたくなってしまう。
「ん、じゃあやめる。今度はちゃんとすればいいんだろ」
「はぁ……」
(そういう事じゃないでしょ、修ちゃん。もう)
 全然話が通じていない修一にがっかりしながら、もういいやと思ってしまう凛太郎だった。


(その2へ)

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