金曜日6月5日 母親と娘?


 凛太郎の誕生日も翌週に近づいた金曜日の夜。夕飯の途中で千鶴が切り出す。
「あ、凛ちゃん。お母さん今度の土日出張入っちゃったの。一人でお留守番になっちゃうけど、大丈夫?」
 まるで小学生かもっと小さいコに語りかけるように言う。千鶴にとってはいつまでも小さい子どもの凛太郎だ。元々過保護気味ではあった千鶴だけれど、凛太郎が女性化してからというもの、余りにも無防備な我が子に対して必要以上に過保護になってしまう。
「……お母さん。僕ももう高校生なんだから、そんなに心配しなくてもいいよ。ちゃんと留守番してるから」
 凛太郎も心配されるのは仕方ない事と思っている。ただ最近の千鶴の態度は自分の年齢に相応しくないと思っている。
「土曜日の朝は一緒に食事採るけど、日曜日の夕飯までは帰れないかも知れないから。作るなり出前取るなり食べに行くなりしてね。お金はちゃんと置いておくから」
 多少の食事は作れる凛太郎だったから、千鶴もその点においては心配はしていない。今の心配の種は、あの事だけだ。
「食事は適当に採るからいいよ。戸締りもちゃんと見るし。別に一人でいるの平気だから。あ、急な連絡ってどこにすればいいの?」
「ん、連絡は携帯にくれればいいわ。もし繋がらなかったら会社でもいいし。誰かに連絡するように言えばいいから。それと泊まる所も書いておくからね。それと」
 千鶴は居住まいを正し、正面から凛太郎を見つめる。大抵そういう時は重要な事を、凛太郎に何かしらの釘を刺す時だ。凛太郎に少し緊張が走った。
「凛太郎、お母さんがいない時は絶っっっ対家に男を入れちゃダメよ。わかった?」
 凛太郎はその言葉に食事が胸に詰まってしまった。慌ててお味噌汁をくいっとあおる。胸を軽く叩いて嚥下するのを助けてみた。
「男って……、別に誰も来ないじゃんか。出前の人とか? お父さんは……、」
 お父さん、と口に出して、あの日曜の事を思い出してしまった。途端に胃がぎゅーっと掴まれた様に痛くなる。
「……来ないし。他にはいないじゃない」
 少し俯き加減に、千鶴に表情を見られないようにする。千鶴は凛太郎の変化に気づかなかったのか、それとも気づいても敢えて追求しないようにしたのかは解らなかったが、違う事を凛太郎に言った。
「一人いるでしょ、修一君が。彼もお母さんがいない時は入れちゃダメよ」
 いつもの不機嫌モードとは違ったが、千鶴の目が本気に怖い。しかし凛太郎は少し躊躇しながらも反論を試みた。
「でも、修ちゃん悪い事しないでしょ? それお母さんだって知ってるじゃんか。女の子になった時だって、修ちゃんに言うの反対しなかったし」
「悪い事する子じゃないのはわかってます。でもね、男の子が可愛い女の子と二人きりになったら、いきなり豹変するのよ。修一君て、もうあなたの事を女の子って見てるし、友達だからってわからないのよ。あの位の年が一番危険度高いんだから。突然触られたり抱きついたりしてきたら、逃れられないでしょ。男の子の方が力が強いんだから」
 修一の事を悪し様に罵る訳では無かったけれど、凛太郎には修一の事を悪く言う千鶴が信じられなかった。確かに豹変、というか突然変わったり、抱き締められて逃げられなかった事もあったけれど、直ぐ傍で見てる訳ではない千鶴に修一の事を悪く言われるいわれは無い。修一の優しさに触れていないのにそんな事を言われたく無かった。次第に凛太郎は激してきていた。顔も紅潮してきている。
「お母さん、修ちゃんていいトコたくさんあるんだよっ。お気楽だけど、優しいし守ってくれるし、修ちゃんの事悪く言うの止めてくれる?!」
 別に千鶴にしたら修一の事を悪く言ったつもりは無かった。修一の事を引き合いには出したが、男全般についてを言ったつもりだったのだから。凛太郎がこうまで激しく言うとは思いもよらなかった。
「凛ちゃん? お母さんはただ……、」
「ちゃんと真面目に付き合ってるから心配してくれなくていいよっ! …………あ」
 さっと口元を押さえるが、声帯を震わせて出て行った言葉は戻ってこない。凛太郎はついつい修一の事で熱くなり過ぎてしまった。いつか言おうと思っていた事だったけれど、今のタイミングはあんまりだ。怒りの赤から恥かしさの赤へ、表面上は変わりなかったけれど、凛太郎の中では顔色が変わっていた。
 目の前では千鶴が大きく目を見開いて、あんぐりと口を開けている。それはそうだ、千鶴にしてみれば寝耳に水状態だった。娘に変わった息子はずっと戻りたいと願っていたと思ってきた。それがどうだろう、ひと月もしたら親友だと言っていた男の子と恋仲になっているのだから。最近少し変わったかしら、と思ってはいたものの、その変化が男との恋愛によるものだとは思っても見なかった。
(このコって男の子が好きだったの?)
「……付き合ってるって、凛ちゃんと修一君が?」
「うん……」
 所在なげな態度でこっくりと頷く凛太郎に、千鶴が矢継ぎ早に問い掛けてきた。
「いつから? 男に戻らないの? どうして?」
 いつからと問われても、段々と、としか答えようがない。凛太郎にしても徐々にそういう気持ちが芽生えていたのだから。それを何月何日からと明確に答えられる訳が無かった。大体凛太郎にも良く解らないのだし。男に戻らないのかと問われれば、戻りたかったと答えるしかない。その方法が今ひとつはっきりしていないし、「ワンコの修一くん」が魔物の忌避するものだと解ってから肌身離さず着けている。当然魔物の気配さえない今の状態では、戻る事自体が不可能だった。どうして、これは全く愚問だと思った。好きだから、それしか回答はない。
「いつからって、なんか段々……好きになっちゃったし…………。戻りたいとは思ったけど、最近魔物来なくなっちゃったから……。どうしてって、僕、修ちゃんの事、す、好き、だから、かな……」
 自分の母親に対して、好きな人の事を言うのも何か恥かしい気がしていた。凛太郎は、だからちょっと言葉を曖昧にしてしまった。
 千鶴も少し馬鹿な質問をしてしまったと思っていた。人を好きになるのに時間なんて問題ではないし、どうしてなんて解る筈も無い。千鶴自身だって理をどうして好きになったのか、はっきり答えようもない。ただ男に戻らない点だけはまだ納得出来なかった。
 それでも千鶴は冷静になろうと深く息を溜め、大きく溜息を吐き、凛太郎をじっと見つめた。先程の威勢は既に消え、肩を竦めながら畏まっている凛太郎の姿が目に映る。
「……ほんとに真面目に付き合ってるのね?」
「う、うん」
「疚しい事してないのね?」
 千鶴の言葉に、凛太郎は一瞬返答を躊躇していた。疚しいの言葉の定義が、悪い事をしていないと言う意味では、していないと答えられる。悪い事にえっちな事が入るなら、してるかもと思ってしまう。
(疚しいっていうか、悪い事はしてない、と思う……)
「……うん」
 凛太郎の一瞬の逡巡に少し眉を顰めた千鶴だったが、そのまま後を続けた。
「……信用するけど。あたしがいる時に修一君連れていらっしゃい。朝だけじゃ話が出来ないから。それと。家には入れちゃダメだからね」
 探るような表情から再度怖い目つきに変わる千鶴に、凛太郎は少しビクツキながらも心に引っかかった事を言ってみた。
「あの、お母さん、連れて来るけど修ちゃんに変な事言わないでよ」
「…………なぁに? 変な事って?」
「! ……なんでもないです……」
 ぎろりとねめつけられ、凛太郎はそのまま黙っていた。
 
 * * * * * * * * *

 途中から食事の味が解らなくなった夕飯を済ませ、お風呂も済ませた凛太郎は、そのまま千鶴と言葉を交わさずに自室に引き篭っていた。
 パジャマ姿で部屋の中を行ったり来たりとうろうろしてしまう。
(あ〜、もう、タイミング最悪だよ。何で言っちゃったんだろう。お母さん、修ちゃんに何言う気なんだろう……。僕とはもう付き合わないでなんて……。そんなの最悪だよ)
 千鶴の性格は凛太郎も把握しているつもりだった。息子想い過ぎるキライがあるけれど、基本的には優しく話のわかる母だと思っている。ただ、結婚に失敗しているせいか、男に対する評価はめちゃくちゃ辛い。そんな中で修一は、凛太郎の親友というポジションだったから、比較的甘い評価がなされていた。でも今の状況では違う。千鶴の過保護ぶりは女性化してから頓に強くなっている。それに。
(お母さんて、嫌いになったらずっと一直線で嫌っちゃうからなぁ)
 好きになったものでも、嫌いになる事はあるし、その逆も然りだ、普通は。しかし千鶴の場合、好きなものを嫌いになる事はあっても、嫌いなものを好きになる事は絶対にない。一度嫌いになったらトコトン嫌う。
(時々えっちな事してます、何てばれたらどうなっちゃうか。お母さんの事で修ちゃんに嫌われちゃったらどうしよう……)
 ぼてっと上半身だけベッドにうつ伏せになる。ひざまづいて両手を伸ばす。後ろから見るとちょっとエロい格好かも知れない。尤も誰も部屋にはいないけれど。
 こんな風に言うつもりは毛頭無かった。でも修一の事を悪く言われたと思っただけで、凛太郎の心に抑え切れない感情が沸き起こってしまったのも事実だった。好きな人の事を悪く言われたくない、否定的に見られたくないと思って口をついた言葉だったが、もしかしたら結果的にもっと悪くなったのかも知れない。そう思うと凛太郎は久しぶりに大きく落ち込んでしまっていた。
(どうしようっか。修ちゃんに連絡した方がいいかな? でも何て言おうか。お母さんに注意? うーん、熊に注意みたい)
 不安、という気持ちでもないけれど、修一に対する千鶴のこれからの態度が気になってしまう。そんな事を考えていると、凛太郎は急に修一と話がしたくなっていた。今日の母との事を話すにしろ話さないにしろ、修一の声が聞きたかった。修一の声を聞けば心も落ち着く気がしていた。ただこの所朝夕の送り迎え、それにお昼も一緒に採っていたから一日の話など既に終わっている気もしている。今日も既に色々考えているうちに十一時を回ってしまっている。あまり遅くにかけても迷惑になるかも知れない。そう思うと凛太郎は机の上に置いてある携帯電話に伸ばしかけた手を引っ込めていた。
(今日は、いっか。遅いし。明日話せばいいかな。うだうだ考えても仕方ないし。もう寝よっ)
 掛け布団を剥いで足を中に入れる。「ワンコの修一くん」におやすみを言おうとチョーカーに手を添えた。
(こんな風に修ちゃんも僕の声聞きたいなんて思ってるのかな?)
 と。机の上に置いていた携帯電話のバイブレーション機能が着信を告げた。ベッドから降り机に向かう。
「あ、修ちゃん」
 小さく叫ぶ。修一から最近では珍しく携帯電話にメールが送られてきた。修一とちょっとの時間でも繋がりを持っていたい、そんな気分は自分ひとりだけなのかなと、多少寂しくも感じ始めていた。そんな時、電話ではないけれど修一からメールが届いた事で、修一もそう感じているのかと嬉しく思ってしまう。
 パカッと二つ折りの携帯電話を開く。受信メールを開くと簡潔な内容が書かれていた。
『日曜、映画行かないか』
 これまで、凛太郎は修一と二人で映画に行く事もあった。男の時だったけれど。どちらから誘うという訳でもなく、話題の映画が公開されれば行こうという感じだった。よくよく凛太郎が思い巡らしてみれば、女性化してから二人で出掛ける事なんて無くなっていた。勿論、笑を交えて図書館に行った事はあっても、それは遊びに行くと言うより、凛太郎の用事の為に行ったのだ。それに凛太郎が頼んだという事実もある。実際に修一からアクションを起こされたのは、告白とえっちな事を除けばこれが初めてだった。
(え、あ、これって……デートの誘い?)
 凛太郎の知識の中では、二人で映画に行くというイベントはデートに入る。ましてや二人とも好きだと告白しあったのだから、当然そういう事なのだろう。
 デートと自分で思った瞬間から、身体が沸騰するような、心臓の鼓動がバクバクと大きく脈動するような感覚に襲われていた。どこまでも舞い上がってしまうような気分の高揚と、ときめき。千鶴に釘を刺された事など既にどこか遠い世界に行ってしまっていた。
(修ちゃんと日曜デート! って、あ、返事返事。えっと……)
 気の利いた返事でも書こうかと思ったけれど、浮いたっきりの凛太郎の頭では全然出てこない。ベッドの上で膝を抱えてうんうん唸りながら、結局簡素な返事になってしまった。
『いいよ。何時? どこ?』
(これじゃ楽しみにしてるって感じじゃ出てないなぁ。あ、楽しみにしてるって書けばいいのか)
『楽しみにしてる。何時? どこ?』
(これでいいかな。よしっ。送信、っと)
 親指で送信キーを押すと、画面上ではアニメーションでメールが飛んでいく。修一の元へ。一、二分携帯電話を両手で掲げ、画面を見つめて待つ。返事がいつくるか待ち遠しい。
 なんだか電話ですれば早いのにとも思ってみたが、時間が掛かっても楽しいと思ってしまう。
「!」
 暗かった液晶画面のバックライトが点き、アニメーションが動く。修一からの返答だった。にまーっと変な笑みを浮かべながら、受信したメールを見てみる。
「なんだこりゃ」
 思わず声が出てしまった。メールには『明日の朝話す 眠い』とだけ書かれている。いくらいつも朝から顔を合わすとは言っても、時間位書いても良さそうなものだ。尤も修一の事だからまだ何も予定を考えてない可能性も捨てきれないけれど。
(でも、眠いはないよ、眠いは。僕だって起きてるのにっ、電話我慢したのにっ。電話にすればいいじゃんか、もうっ。僕も寝るっ)
 楽しいのか怒りたいのか良く解らない心境になってしまった。それでも誘われて嫌な気になろう筈もなく、凛太郎は銀の犬を弄りながらベッドに潜っていった。明日の修一との会話を心待ちにしながら。


(土曜日6月6日 お洋服選びへ)


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