月曜日6月1日 魔物の弱点(その3)


「はぁ、疲れたぁ……」
 ぼふっと顔からベッドの上に倒れ込む。既に夕食もシャワーも済ませ、凛太郎はパジャマ姿になっていた。
 今日は良く無事に帰りついたと、自分でも運の良さを実感していた凛太郎だった。谷山にも見つかる事なく作業棟を抜け出し、暗い自転車置き場へも注意深く辺りを警戒しながら一人の生徒とも顔を合わせずの下校。スリル満点だった。別に悪い事をしていた訳ではなかったけれど、つい人とは顔を合わせたくなかった。それは修一も同様だったようで、かなり周りを気にしていた。
 しかし、今日の修一の一連の行動には閉口してしまう。いくら好きだからと言ってもやり過ぎだ。学校の敷地を出るなり、凛太郎は修一に大文句を言ったが、修一も驚くほど素直に「悪かった」を連発していた。最後には凛太郎の方が折れてしまう程に。
 作業棟の事を思い出すと枕に埋めた顔が火照ってくるのが解る。修一に敏感な女の子の部分を弄られ歓喜の声を上げてしまった自分。そして強引にイかされてしまった姿。何か客観的な視点からの映像が脳裏に浮かんでしまう。
(あ〜、もうっ、恥かしいなっ。明日どんな顔して逢えばいいんだろ。って修ちゃんはきっと普通の顔してんだろうな)
 でも、と思う。そこまで行く過程は最低だ。殆ど騙して、強引に、凛太郎の気持ちも考えず、悪戯してきたのだから。何か次第に凛太郎はイライラし始めていた。
(大体修ちゃん、いつも強引なんだよ。勉強会の時だって、直ぐに手を出してくるし。僕じゃなくって女の子の身体ばっかり欲しがるし。悩んでるのだって絶対僕だけに決まってるし。あーっ、馬鹿修!)
 これまでの不信感が一気に噴出してしまったかのように、修一に対する苛立ちが募ってしまう。修一はそんな人間じゃないとは思っているのだけれど、重く感じる身体、特にだるくなっている下半身、それが凛太郎を一層苛つかせ、修一への文句の原因となっていた。
「…………苦しい……」
 ずっと枕に顔を着けていたせいで呼吸が苦しくなっていた。「ぷはぁっ」と若干チアノーゼ気味になった赤い顔を上げ、深く呼吸する。枕を縦にしてに抱きつき、そのままコロリと天井の方を向いた。
「なぁにしてんのかな……、修ちゃん……」
 枕の端に唇を押し付け、呟いた。不意に慌ててズボンとパンツを集める修一の姿を思い出し、くくっと笑ってしまう。
「あれは、格好悪かったよ、うん」
 ぶつぶつと独り言を言いながら笑っている凛太郎。千鶴が見ていたら心配して病院に連れて行ってしまったろうが、残念ながら千鶴は既に自室に入っていた。
(……あ、裸、見ちゃったんだ……、うあっやだな、今頃思い出すなんて。……あぁ! ……僕も見られたんだっけ……)
 乳首も吸われて、女の子を弄られて、イかされて、自分でも「修一」を目の前で扱いていたのだから、見て見られては当たり前の筈だった。しかし、裸という単語の方が何となく凛太郎の中では「えっちぃ」感じがしていた。
(その内、僕達しちゃうのかな……、しちゃうんだろうな、きっと。その時って……もっと後だよね)
 単純にセックスが怖い、という感情よりセックスする事でこれ以上自分で無くなるという怖さの方が強い。女の子になる、なった、そういう自分ではないものへの変化は、かなりの心理的ストレスだった。それが最後の一線を拒む理由の一つとなっていた。勿論、修一の事は好きなのだから、このままずっと戻れないのならそうなるのが自然だと思っている。
(あー、なんだかもう、考えも纏まんないし、イライラするし。調子悪いなっ。もう寝よっと)
 大きな枕を抱っこしながら、ベッドの上をごろごろと転がって壁に背中をくっ付けていた。凛太郎は膝立ちになって枕を直し、明かりを消して掛け布団に潜り込む。と。
「あっ。修ちゃん一人えっちしてないだろな。……きっと思い出してしてんだろな。うー、明日からえっちぃ事無し。馬鹿になっちゃうよ」
 チョーカーの「わんこの修一くん」を手に取って、ジーッと見つめる。
「おやすみ、エロ剣士くん。大事にしないとえっちさせてやんないぞ」
 凛太郎の問いに答えたかのように、銀の犬はチラっと窓から洩れる明かりを反射させていた。凛太郎はそれを大事そうにきゅっと握り締め、そのまま真っ暗な世界に吸い込まれていった。

 * * * * * * * * *

 真夜中。夜行性の生物以外は普通、記憶を整理する為の睡眠を貪っている時間。凛太郎はもそもそとベッドの上で蠢いていた。眠れない訳ではなく、ただ生理現象で起きてしまっただけ。
「ん……」
(おしっこ……)
 掛け布団を取り、眠い目を銀の犬を持った手で擦りながらベッドからゆっくりと下りた。自分の部屋の中だ。ちゃんと片付けもしているし、床には何も置いていない。たとえ真っ暗闇の中でも廊下へ通じる扉の位置は、目を瞑っていても行ける。筈だった。
(?? ドアは?)
 いつものように歩いて行っても扉に行き着かない。きょろきょろと辺りを見回してみると、さっきまでぬくぬくとした体感を与えてくれていたベッドが見当たらない。いつもは新月と言えど、カーテンから街頭の灯りが差し込み室内は薄っすらと見える筈なのにそれもない。寝ぼけていた頭が次第にはっきりしてくると、ある想像が働いた。魔物が来ている、と。
「どこにいる? 来てるんでしょ」
 緊張で少し声が震えていた。しかしその凛太郎の問いにも返答がない。いつもならからかうように話し掛けて来ていた魔物が、今日に限っては現れない。おかしいと思っているといきなり後ろから肩口を抱き締められた。
「ひゃああっ?」
「色気無いわねぇ、きゃーっとか、いやーんとか言いなさいよ。女の子なんだから」
 甘い香をその身体に纏い、溜息混じりで魔物が話し掛ける。背中に二つの柔らかい感触。そして鼻腔を擽る香。魔物の両腕は凛太郎の肩から前の方に回されガッチリと掴まれていた。一瞬だけ魔物の甘美な感触と香に心を奪われたが、直ぐに気を取り直した。
「…………いたずら、しに来たの?」
 身体の芯が少しずつ熱く疼いて来ていた。凛太郎はそれを必死に隠そうと、なるべく平静を装いつつ言葉を口から吐く。
「彼、どうだった? 積極的? 君もしたくてしょうがなくなったでしょ」
 しかし凛太郎の問い掛けには一切答えず、魔物は自分の話だけをし始めていた。凛太郎は苦々しい表情を作る。
「やぁね、そんな顔しないの。可愛い顔が台無しよ。彼もそんな顔見たくないわよ、きっと」
 ぐっと魔物の腕を掴み身体を離すと、二三歩移動してから魔物の正面に向く。いつものように美しいと感じてしまう魔物の裸体。見慣れてきたとは言え、その裸体は目の毒だ。凛太郎は無理をしながら精一杯睨みつけるが、可愛い目では全く効果は無かった。その目で効果がありそうなのは修一位なものだ。
「いたずらしたければ早くすればっ? 契約とかって全然話さないし。修ちゃんと上手くやってるから来ても、もう無意味だよ!」
「珍しく好戦的ねぇ。……あら? 君って……。あ、そうなのね。だからイラついてるのか」
 ちょっと魔物が目を凝らして凛太郎を見た。まるで身体を透視しているかのように。その目つきと言い様に凛太郎は益々イラついていた。
「べっ別に、おしっこしたいからイラついてる訳じゃないっ!」
 顔を真っ赤に染め上げて、大声を上げる凛太郎に、魔物は少しきょとんとした顔を見せ、遂には声を上げて笑っていた。
「……あ、あははっ、くふっ。あ〜、君ってほんとに飽きないわね。そうなの、おしっこ我慢してたんだ。……成る程ね、自覚してないのね」
(あ、しまった。なんか違う事だったんだ。ああっ言わなきゃ良かった……)
 その様子に今度は凛太郎の方が唖然としてしまう。しかし徐々に何か間違った事を言ったと理解し、急に恥かしくなってしまった。伝えなくてもいい自分の状況を伝えてしまったのだ。その羞恥心を隠すためにわざわざ質問をしてみる。
「じ、自覚ってなにさ……」
 唇を突き出しながら、仏頂面で尋ねる凛太郎に魔物はニマニマと笑いながら返答した。
「自覚ってね……ま、いいか。ここニ三日でわかるから。楽しみにしてなさい。それより」
 急に魔物の目つきが変わる。鋭く射抜くような目つきに。凛太郎はその瞳をまともに見、吸い込まれそうになる気がした。
「あたしの質問に答えなさい。積極的な彼、どう思った? 流されたいと思ったでしょう? そのまま最後までしちゃいたいって思ったでしょう?」
「あ、しゅ修ちゃん、とは、まだ早いから……」
 逆らえないような、特別な何かが働いているのか、凛太郎は先程とは違って静かに、いつもの凛太郎に戻って落ち着いて話始めた。
「せっかくあたしが彼の事誘導したんだから。ちゃんと誘惑しないと。彼のおちんちん触ってる時って幸せだったでしょう?」
「……胸が熱くなって、ドキドキして……。おっきくてびっくりした……。あんなの入んないよ」
(思い出したらドキドキしてきた……。やだ、身体熱い……)
 若干、凛太郎の呼吸の感覚が短く、そして浅くなってくる。熱い息が回転良く吐き出されていた。魔物はそれを満足げに眺めている。
「入るわよ、みっちり、君のまんこ埋めてくれるわよ。出たり入ったりしたら気持ちいいんだから」
 じわっと凛太郎のお腹の奥から染み出してくるのが解る。ハッハッと呼吸がどんどん荒く激しくなっていた。話しと想像だけで興奮状態になってしまっていた。
「あたしがね、彼に言ってあげたの。もっと積極的になって彼女を奪ってって。そしたら彼、ほんとにしたのよね。分りやすいコだわ。可愛いし、身体もいいし」
 人差し指をペロッと舐め、ゆっくりと自分の赤い唇の中へ出し入れする魔物。まるで自分の指を修一のペニスに見立てているようだった。
(修ちゃんがえっちな事してくるのって、こいつのせい? 修ちゃん、操られてるの?)
 その話しを聞いて凛太郎は途端に混乱しだした。自分を好きだから、欲しいから強引にえっちな事をしたんじゃないのか? 自分を見てくれていたのではなかったのか? 今日の激しいえっちな事も、実は修一がしたかった訳ではない? 
「そうよ、前に言ったでしょ? 彼って君の事が好きなんじゃないの。君のエッチな身体が好きなの。ちょっとあたしが後押ししただけで、手を出して来たでしょう? ほら、大切な女の子だったら大事にするじゃない。君みたいに特殊なコだったら余計に大事にね。でもそれってほんとに好きな場合でしょ? 彼、君の良く濡れるまんことか、吸い付くような肌とか、揉み応えのあるおっぱいが好きなのよ。君じゃないの。残念だけど」
「そっそんなのっちがっ、修ちゃん僕の事好きって。僕もちゃんと言ったっ」
 凛太郎の心にどんどん魔物の言葉が染み込んでくる。そうすると混乱も益々激しく、凛太郎の思考を揺さぶっていた。
 いつものように、魔物の言葉は凛太郎を支配していく。不安を掻き立てるように。けして幸せな気分にさせないように。
「手近にあった女の子の身体だから、君が選ばれたのよ。だって、彼、あんなイイモノ持ってるし、女の子に見せたら直ぐ入れてって言われちゃうわよ。君みたいに中途半端じゃなくて本物の女の子。あ、君って練習台なのよ。そうよね、きっと」
 酷い言われように凛太郎は心も身体もグラグラと揺れていた。
「そんなんこと、ない……。修ちゃん、……違う……」
 涙が溢れて何も見えなくなって、魔物の姿も見えない。さめざめと泣く凛太郎の姿に、魔物はゾクゾクしてしまう。
(ああっ、ほんっとにいじめ甲斐があるわあ)
「……ねぇ、男に戻りたい? それでも女の子のままがいいの?」
 いつ近寄ったのか、魔物が凛太郎の両肩に手を置き、大粒の涙を落とす凛太郎の俯いた顔を覗き込むように見ていた。
「僕、修ちゃんが……。でもわかんない……」
「教えておいてあげるわ。契約は、その内容を全て伝えてないと不履行になって、元に戻れるのは言ったわね? 実はね、君の身体はまだ完全に女として定着してないのよ。定着させるには男とセックスして、それから……君なに持っているの? なにか持って顔擦ってたら危ないわよ。可愛いお顔が傷ついちゃう。見せ…………!」
 魔物は凛太郎の手を広げさせると、掌の中にあったその銀色の生物を模した細工を自ら手に取り眺める。すると見る見る内に顔色が変わってくる。
「?」
 脂汗をたらたら流しながら、魔物は震える声で言葉を紡ぎだした。
「い、い、い、犬っ? いぬ!? ………………ぃぃいやぁぁぁああああっ!!」
 魔物は大声を張り上げ、凛太郎から取った犬の形を模した銀細工を凛太郎の足元に叩きつけた。そして脱兎の如く虚空へと消えていってしまった。
「え? 何で? あ、魔物って……、犬が苦手なの?」
 打ち捨てられた「ワンコの修一くん」を拾い上げると、ふっと辺りの雰囲気が変わった。いつもの自分の部屋に戻っていた。チョーカーを探し「ワンコの修一くん」を付け、夜だと言うのにチョーカーを着けた。
 普通なら、魔物の弱点が犬だと解ったのだから大喜びしてもいい位だった。けれど凛太郎の胸中には別のものが去来していた。魔物の声が。
『彼って君の事が好きなんじゃないの。君のエッチな身体が好きなの』
(そんなこと、絶対ない、よ。修ちゃんは僕の事好きだって言ってくれたもん……)
 ぐしぐしと涙をパジャマの袖で拭う。身体が冷えたのかぶるっと震えが走った。
(あ、おしっこ、行かなきゃ)
 凛太郎は慌てて階下のトイレまで駆け下りていった。


(「火曜日6月2日 イライラの原因」へ)

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