火曜日―水曜日 夢の中の陵辱(その1)


 月曜日、火曜日はそれまでと大きな生活の変化は訪れなかった。強いて挙げれば、阿部が身勝手にも凛太郎を無視している事、女子が少しづつ凛太郎をその輪の中に入れ始めた事位だった。元々背も小さく可愛い感じの男子という事で、凛太郎の人気は低くは無かったが、アトピーの事もあり、クラスメイトとの接触をあまりしていなかったから凛太郎自身は知る由も無かった。
 男子生徒は相変わらずで、女子に言ったら「セクハラっ」と言われるような事も言ってきたが、凛太郎はそれを自分が男だから気安く言っていると良い様に捉える事にしていた。
 総じて女の子としての凛太郎は、この一週間で大分学校生活にも慣れてきていた。
 火曜日の夕暮れ時、修一と自転車で帰った凛太郎が、家の前で少し話しを始めた。
「あのさ、今日お母さんが取ってくるんだ」
 少しはにかんだ様子で話をする凛太郎に、修一は凛太郎が何を指して言っているのか解らなかった。
「千鶴さんが取ってくるって、何を?」
 全然話が見えない修一は当然聞き返す。
「だから、あれだよ、あれ。解んないかな……」
 凛太郎は解って当然と言う風に焦れったそうに言うが、修一には「あれ」という物がやはり解らない。
「あれって何だって? 全然話がみえねぇって」
 俺の方が焦れったいよ、と言わんばかりに応答する修一。
「……制服」
(修ちゃん鈍いよ)
 そう思いながら、小声で言った。
「ああ、そうか。一週間て言ってたもんな。で?」
 凛太郎が女の子として学校に行き始めて一週間。女の子に変わってしまって、もう十日になっていた。その間、早かったのか、遅かったのか、修一は不思議な時間感覚に見舞われていた。
「だからさぁ、明日から着て行かなきゃいけなんだよ」
 制服を着ていったら否が応でも女生徒として扱われる。女の子として楽しもうと思ってみても、やはり恥ずかしいし、周りがどう思うのかも心配だった。特に修一の反応に、凛太郎は最大の関心があった。
 修一にとって見れば、既に初めてデパート前で見かけた時から運命を感じた位の女の子だ。凛太郎だったと知ってからも、その想いは消えていない。かえってどんどん膨らんでいるようにも感じている。その女の子が「普通に」女子の制服を身に付け登校するのは当然のことだった。凛太郎の心情を考えると、恥ずかしいと考えるのは当たり前とも思っているけれど。
「大丈夫だって。似合って無くても笑ったりしないって」
 ちょっとからかいたくなり、冗談交じりで修一が言った。
「……似合わないのなんか解ってるよ。男なんだから」
 少しムッとしたのか、凛太郎の声は少し低く震えているようだった。修一は意外な反応に戸惑ってしまう。
「怒るなよ。冗談だって。きっと似合う。リンタ結構可愛いって。うちのクラスでも女子の評判いいかんな」
 女子の評判がいい、と言うのは本当だった。「山口君可愛い〜」という言葉は結構方々で聞くし、いつも一緒にいる修一に色々と関係も聞かれたりする。ただ一つだけ凛太郎には伝えられなかった事がある。男子にも受けが良い事。修一の口からは絶対に言いたくないものだ。
「女子の評判? ふぅん。怒ってないけど、明日朝から大笑いしないでよね。修ちゃんに笑われたら、ショックで立ち直れなくなっちゃうよ」
 凛太郎は半分本音を言っていた。頼っている修一が笑ったら本当にショックだ。恥ずかしいどころの騒ぎではない。
「解ってるって。何着ててもリンタはリンタだって。絶対笑う事はないって」
 ニーっと笑う修一の顔に、思わず凛太郎もつられて笑ってしまう。
「うん、ありがと。まぁ楽しみにしててよ」
「あぁ、すごく楽しみにしてる」
 修一は真面目な表情でそう言うと、山口家を後に帰っていった。

 * * * * * * * * *

「凛ちゃん、制服取って来たから」
 七時になり母が帰ってきた。いつもは八時位になるから、今日はわざわざ制服を取ってくる為に仕事を早く切り上げたのだろう。
「はぁい。ご飯の用意出来てるよ」
 気のない返事で、返す凛太郎。ご飯の用意と言っても、千鶴が予め作っていたものを電子レンジで温めただけだが。尤も簡単なおかず位なら凛太郎も時々作っている。炒め物やスープ類、シチューなどは結構いい味だしてると凛太郎は自画自賛している。
「はい、ありがとね。これ、今着てみる?」
 千鶴は居間に行き、制服を鴨居にぶら下げながら、キッチンの凛太郎に問うた。
「ええっ? いいよ。明日朝着るんだし」
 ジャーからご飯茶碗にご飯をよそいながら、少し怒ったように顔を赤くして言った。千鶴は続ける。
「ちゃんと出来てるかどうか、着てみた方がいいと思うけど。ご飯の後でもいいから、着てみない?」
 あくまでも制服を着せる気満々な千鶴に、凛太郎は軽いめまいを覚えた。
(お母さんてば、どうしても着せたいんだ。全くもう)
「解ったよ。ご飯食べたら着るけど、お母さんには見せない。どうせ朝見るんだから」
 凛太郎はお味噌汁をつけながら、居間の方を見ずに言う。ちょっと意地悪く。
「あら。ま、いいわ。……ねぇ、凛ちゃんお願いがあるんだけど。お母さんそれ一度着てみてもいい?」
(は?)
 凛太郎は危うくお椀を落としそうになってしまった。自分の母に変な趣味があるのか? そう疑わずにはいられない。そう言えば制服を買いに言ったときも不穏な発言をしていたのを思い出した。
「お、お母さん、なんか変な趣味でもあるの?」
 恐る恐る聞いてみる。しかし千鶴はしれっと言ってのけた。
「この制服、すごく可愛いんですもの。お母さんが着てたのって野暮ったかったから。別に変な趣味じゃないわよ」
 凛太郎は十分変だよ、と思ったけれどそれは言わなかった。代わりにキッチンに置かれている椅子に腰掛け、溜息をついた。
「ダメ。僕に合せたんだからお母さんじゃ合わないよ。もう、ご飯用意出来てるんだから、冷めないうちに食べようよ」
 千鶴は心底残念そうに制服を見、そして恨めしそうに凛太郎を振り返った。
「はいはい、ちょっと着替えてくるから。少し待っててね」
 いそいそと二階に上がる千鶴を見送りながら、凛太郎はゆらゆらと揺れている、鴨居に下がった制服を眺めていた。
 夕食が終わると千鶴と凛太郎で後片付けをするのが習慣だった。ただ今日は直ぐに凛太郎が部屋に戻る。
「お母さん、着てみるけど入ってきちゃダメだよ。いい?」
 お店のハンガーがとビニールが被ったままの制服を胸に抱き、凛太郎が千鶴に念を押した。こうでも言わないと乱入して来そうな気がしていたから。
「はい。解ったから早く着てみなさい。サイズとかちゃんと確かめてね」
 流しで洗い物をしながら、顔だけ肩越しに話してくる。
「うん、解った」
 とんとんとんと、階段を上り部屋に入ると制服をベッドの上に置いた。ビニールを取り、ハンガーを外し、冬服と夏服、ブラウスまで広げる。
「あー、文化祭で女装する気分だよ……」
 中学の文化祭では何故か女装する羽目になったのを思い出した。ついでに修一が大笑いしている場面まで思い出し、ちょっと憂鬱になる。そう言えばあの後、妙にクラスの男子が凛太郎を意識していた時期があった。
「これも楽しむ事の一つって思えば、気も楽になる、のかなあ?」
 今はまだ冬服を着て登校する時期だから、まず冬服を着てみる事にした。部屋着として着ていたスウェットを脱ぎTシャツ一枚になる。ブラウスを手に取るとボタンを外し始めた。
(この襟ってなんか変だよね)
 セーラーカラーの襟を見てそう思う。男の凛太郎からするとセーラーは女子の制服のイメージが強い。歴史的には海軍の制服から端を発しているのだから男子用なのだが、そんな事は凛太郎は知らない。
 左腕を袖に通し右腕を通す。さらっとした感触は全く男子のワイシャツと変わらない。
「ありゃ?」
 ボタンを外す時には気にならなかったが、留める時になり気が付いた。付いている位置が反対だ。着物で言うと左前。右前で慣れ親しんでいる凛太郎としては当然面食らった。留めづらいな、と思いながらも全部留める。ワイシャツと違いちょっと胸元が寂しい気がした。
 次は……、とスカートに目をやる。男子ならワイシャツの次は当然ズボンを穿く。順序からするとスカートだけれど。
(パス。あとあと。ベストを先にしよ)
 上着とスカートと同色のベストに袖を通す。三つ揃えのスーツのベストのように、胸とお腹が丁度良く絞まった感じになる。これまであまり感じなかった胸の大きさと、ウェストの細さが強調された感じだ。ベストも当然左前。
 ふと鏡を見ると、カラーがベストの襟から出ていない。無理やりベストの襟から引っ張り出し形を整えた。
(すっごいめんどくさいな。みんな良く着てくるな、こんなの)
 正直言って、時間がかかる事この上ない。明日の朝ぶっつけ本番だったら遅刻しかねないと思ってしまった。
(リボンていつつけるんだろ? ネクタイは上着着る前だから……。今の方がいいや)
 通常の制服なら、リボンは紐をカラーに通すだけの簡単なものだけれど、凛太郎の高等学校の制服はスカーフになっていた。しかし凛太郎にとっては、これが初めての女子の制服だ。それが簡便な仕様なのかどうかは知るべくもない。
 なるべくスカートを後の方へ残したい心理から、リボンを結んだ。これもセーラーカラーが結構邪魔な気がする。しかもうまく「ふわ」っとした感じにならない。四度結びなおしてやっと上手く結べた。
 残るは上着とスカート。凛太郎は躊躇なく上着を選んで着る。上着はボタン二つのダブルになっている。ウェストもキュッと絞まっていてラインがはっきり出る。ブラウスのカラーは上着まで出すから、ここでも上着の下から引っ張り出した。
「ひー、これ暑いんだ。明日はベスト着ないでいいや」
 最後に残ったスカートと対峙した。少し短いんじゃないの? と思えるスカートを両手で持ち、顔の前で掲げてみる。
「……うぅ、ついにスカートだ……」
 スカートを一度ベッドに戻し、スウェットの下を脱いだ。ガラスに映る自分の姿を見て、凛太郎は真っ赤になってしまった。上半身だけ制服を着込んでいる少女。しかし下半身はブラウスが少し捲れ、上着の裾から淡いブルーのショーツがちょっとだけのぞいている。そこからまっすぐ伸びた白い足には、白いソックスが履かれていた。エロい事この上ない。
(うわっめちゃくちゃえっちい!)
 慌てて窓から視線を外し、スカートを手に取るとそのまま勢いで穿いてしまった。
 ブラウスを直し、スカートに入れ、ジッパーを上げ、ホックを留める。ズボンと違い全く股間が無防備で、スカスカしている。
(女の子ってなんでこんなの穿いてんだろ? すっごく心もとないのに。風吹いたら一発でパンツ見えちゃうじゃんか。これで明日っから学校行くのかぁ……。あ!)
 凛太郎にある考えが過ぎった。こんな短いスカートでどうやって自転車に乗るのか? 風が強ければ直ぐ捲れてしまうのじゃないか? 大体男だと、お尻、パンツ、ズボン、サドルの順だけれど、これだと、お尻、パンツ、サドルになるじゃないか。それでいいのか? 様々な疑問が生じ、誰かに意見を求めようと思い至った。お母さん? いや、ちょっと聞きづらい。現役じゃないし。思い当たるのは、もう一人しかいない。
 凛太郎は慌てて修一の携帯に電話した。笑に話しを聞くために。
「もしもしっ、夜にごめんねっ。凛太郎だけどっ」
 焦っていつもより声が大きくなってしまう。
『なんだ? どうしたよ?』
 電話の向こうでは、凛太郎の声色に心配したのか、少し怪訝そうな声が聞こえた。
「あのね、笑ちゃんいる?」
『いるけど、なんかあったのか?』
 修一の声は俺に言えよと言っているようだった。
「あったと言うか無いと言うか」
『なんだよ、俺に言えよ』
「……笑ちゃんじゃないとダメなんだってば。修ちゃんじゃダメなのっ。笑ちゃんは?」
 修一の声が途切れる。
『………………ちょっと待ってろ、今呼ぶから。…………笑ぃ、リンタから電話ぁ。なんかお前じゃないとダメだってよ』
 少しすねたような声が聞こえ、凛太郎はハッと気付いた。
(あ、ちょっとキツイ言い方しちゃったかな。後でフォローしとかないと)
 少し遠くで「凛ちゃんが?」と、笑が返事をする声が聞こえた。とたとたと歩み寄ってくる音が次第に大きくなる。
『もしもし? 凛ちゃん、どうしたの?』
 後ろで「凛さんだって」と言う声が聞こえる。
「あ、笑ちゃん。あの、実はちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
 凛太郎は、スカートの話を始めた。
『えーっとね。人それぞれだと思うんだけど』
「そうなの? じゃ、笑ちゃんはどうしてる?」
『あたしはぁ、スカートをこう、って見えないか。イスに座るときって捲れないようにスカートの後ろ押さえてから座るでしょ?』
「そうなの? スカート穿いたの今日が初めてだから……」
(そう言えばお母さんもお尻触ってから座るかな?)
 凛太郎は色々な場面を想像してみたが、特に注意していた訳では無かったからよく覚えていない。そんな事をしていたかな? 程度だった。
『凛ちゃん、今スカート穿いてるの?』
「……うん。制服、今日出来たから。試しに着てみたんだけど。それでお尻押さえるようにすればいいだよね?」
 一呼吸あってから笑が答える。
『お尻押さえるっていうか、上から下に撫でるっていうか。なんて説明すればいいのかなぁ……。あ、そうだ。今イスに座ってみよう。それで解ると思うよ。最初はそのまま座ってみて』
 凛太郎は勉強机のイスを引いた。
「何もしないでそのまま?」
『そう。どお?』
 凛太郎は無造作に腰を下ろしてみる。スカートの裾が中途半端にお尻や腿の下に巻き込まれ居心地が悪い。皺になるかなとも思った。
「なんか、微妙な所で裾踏んじゃってるし、皺になりそう」
『そうだよね。じゃ、次に座るときにお尻の辺りを軽く押さえてから裾の方へ向かってずらしていってみて。裾まで行く間に座る感じかな』
 凛太郎は素直にそうしてみる。
「あ、今度は大丈夫。腿の下までスカート来てるよ。これでいいのかな」
『そうそう。でね。それと同じように自転車に乗るの。あたしの場合だけど』
 凛太郎は感心してしまった。成る程これならサドルとパンツの間にスカートが入る。
「でもさ、今座ってるんだけど、これでも前から風来たら捲れちゃうんじゃない?」
 やはり風が吹いたりすれば捲れそうな気がしていた。パンツ丸だしになって自転車を漕ぐ自分……。想像すると情けなくなる。
『……普通に乗ってたらそんなに捲れないよ。スピードださなきゃ大丈夫だよ』
「そうなのかなぁ。なんか凄く心細い感じがするんだよね」
『気にしすぎだよ。大丈夫だって』
「笑ちゃんは捲れたことないの?」
『あたしは……ないよ』
「……うん、ありがと。助かったよ」
 なんとなくあったんだろうなと凛太郎は考えていた。笑の返答が少し止まったから。それでも笑の話は参考になったし、活用出来そうだった。凛太郎は素直にお礼を言っていた。
『でも、なんか新鮮』
 笑の声が少しうわずっている。
「え? 何が?」
『だって、女の子って普通意識しないでもそういうことしてるもん。なんか意外な所が気になるんだって思って』
 電話の向こうの声がくすくすっと笑った気がした。
「……いくら男でもパンツ見えたら恥ずかしいよ」
 少し低い声で凛太郎が答えると、直ぐに笑が切り返してくる。
『ごめんね、笑って。女の子初心者だもんね。わかんなくて当然だよね』
「いいんだけどね」
『なんかねぇ、周りで代われってうるさい人がいるんだけど、代わった方がいい?』
 修一にフォローしなくちゃ、とちょっと間を置いてから凛太郎が言った。
「うん、お願い。笑ちゃん、遅くにどうもありがとう」
『あたしで良ければいつでもいいよ。おやすみなさい』
「おやすみなさ」
『リンタっどうしたんだ?』
 おやすみを言っている途中でいきなり修一が電話に出てきた。携帯電話を笑から奪い取ったのだろう。ガツっと変な音がした。
「あ、と、ちょっと聞きたい事あったから。ごめんね、修ちゃんだと解らないと思って笑ちゃんに……」
『そんなの言ってみなきゃわかんねーだろ。スカートと自転車がどうしたって?』
 凛太郎は溜息を吐いた。
「……なんで知ってるわけ?」
 修一が屈託なく答える。
『今笑がしゃべってたろ? 横で聞いてたかんな。内容は聞こえなかったけど』
 なんだか修一の行動はストーカー並だ。笑がうるさい人といったのが解る気がする。
「スカート穿いた時の自転車の乗り方。ついでにイスの座り方。ね、女の子じゃないと解らないでしょ? だから笑ちゃんに……」
『なんだよ、スカートなんて短い袴見たいなもんだろ』
「へ? 袴?」
『あれだって膝の後ろを押さえないときちんと座れないんだぜ』
 修一から飛び出した意外な話に、凛太郎は関心を示した。
「そうなんだ。じゃあ、自転車乗るときも捲れたりするの気にするの?」
『袴穿いて自転車乗らねーって。袴って足を一本づつ入れるだろ。それに長いし捲れるのは気にしてないって。そういう話してたのか。なるほどね』
「……そう。なんだよ修ちゃん、すねないでよ。ちゃんと言えばいいんでしょ? 悪かったです。ごめん」
 修一は多少満足したのか、声のトーンが優しくなった。
『俺だって結構色々知ってんだぜ。やだなぁリンタ。俺のこと信用してないんだ……』
 からかっているのは解っていても、ついつい凛太郎は反応してしまう。
「解ったってば。修ちゃんに先に言うから。修ちゃん解んなかったら他に聞くようにするってば」
『ほんとに解ったかあ? じゃ一つお願い聞いてくれ』
 修一がちょっと調子に乗り出している。凛太郎も仕方ないなと思い聞いてみる事にした。
「……いいけど。何?」
『あー、明日な、迎えに行ったらさ、写真撮らせてくれよ』
 凛太郎はしばし絶句した。思わずイスから立ち上がり、部屋の中を見回してしまう。何のために写真を撮ろうというのだろうか。笑うため? それなら見た瞬間に笑えばいい。大体修一はそんな事はしない。誰かに見せるため? 笑ちゃんに見せる為なら最初から理由を言うだろう。その他の理由ってなんだ? 凛太郎には思いもつかなかった。
「……なんかに使うの?」
 今度は修一が答えに窮する番だった。確かに使う。使うけれど、直接凛太郎には絶対に言えない。オナニーで使うなんて。
『……ほら、折角だから記念にと思ったんだわ。文化祭みたいなノリで頼むって』
「記念て言ってもなあ、誰にも見せないって言うならいいよ」
 明らかに興奮した様子で凛太郎に礼を述べる。
『誰にも見せないって。約束するよ』
「ん。じゃ、今日はありがとう。遅くに失礼しましたおやすみなさい」
『おう、おやすみ。また明日な』
 凛太郎は「ふぅ」と一つ溜息を吐いた。取りあえず自転車に乗るのは大丈夫そうだった。イスに座るときもコツが解った。これはいい。修一が写真を欲しがったのは意外だった。
(普通、男が男の写真て欲しく無いよなあ。いくら親友って言っても僕だったら修ちゃんの写真……どうだろう? 欲しい、かな? でもこれあるしなあ)
 机の上に置いてあった銀の犬がついたチョーカーを取り上げてみた。十字架はついていない。
 月曜日の夜には千鶴が銀の十字架を買ってきていたが、凛太郎は結局チョーカーにつけなかった。十字架をつけるなら、修一が買ってくれた銀の犬を外さないといけない。一緒につけようとも思ったけれどお互いが傷つけてしまいそうだったから、止めた。「十字架をつけるから外したんだ」と言えば、修一が何も言わないのは解っていたけれど、それはいくらなんでも修一に失礼だと思った。十字架は無理して時計のベルトにつけている。
(僕だったら好きな女の子のプリクラとか写真欲しいけど、な…………って僕今女の子か……)
 ぼすっとベッドに仰向けに倒れ込む。危うく夏服の上に乗っかりそうだった。
 修一が自分を女の子として見ているかも知れない。それは連休の最終日、女の子になった事を伝えた日から感じていた。千鶴にそっくりな自分。その容姿が原因で、親友が自分に恋心を抱いているかも知れない。でもそれは自分自身を見ているからじゃない。女の子だから、綺麗な肌を持った可愛い女の子だから。千鶴に似ているから。そう考えると凛太郎の胸がギシギシ言っているかのように痛くなってくる。苦しくなってくる。
 凛太郎自身も変化し出してる事に気づいていた。尤もなるべく考えないようにしていたけれど。修一が一緒にいることの暖かみや、安心感は、男同士の時には感じなかった。ましてや修一の温もりを感じながらオナニーするなんてあったはずがない。大体今でも自分の中身は男だと思っているのだから、オナニーした後は修一に対して強烈な罪悪感があった。修一の股間が気になった時もそうだった。ただどこかで女の子の自分の存在も気がつき始めていた。
 女の子になった事で修一との距離は親友の距離から女と男の距離になってしまったのだろうか。親友だった自分は、もう修一の中には存在しなくなったのだろうか。もしそうなら男の自分が可哀想すぎだ。男だった凛太郎がどんどんその存在意義を失って、女の子の凛太郎に飲み込まれていく。そんな不安が胸に溢れる。
 本当は男でも女でも凛太郎なのに、と思う。自分を見て欲しい、好きになるなら自分自身を見て欲しい。それがどれだけ無理な注文かも解っている。修一はホモじゃないし、凛太郎自身もそうなのだから。
 凛太郎は鼻の奥と目頭が熱くなっていくのを感じていた。右手でぶら下げいていた「ワンコの修一くん」が、段々歪んでくる。自己を見直そうとする度に、不安が大きくなって、自分の存在自体を否定してしまう。そして今は女の子の凛太郎に男の凛太郎が嫉妬してしまっている。心が裂けてしまいそうだった。
(修ちゃん、やっぱり女の子楽しめそうもないよぅ……。こんなに苦しいなら、最初から女の子だったらよかったのに……)
 一頻り泣いた後、凛太郎は制服を脱ぎ、ハンガーに掛けた。結局夏服は着なかった。そんな気分じゃない。
 明日の授業の用意をしてから、洗面所へ行きタオルを濡らして持ってきた。瞼を冷やすために。
 写真を撮られるなら、目が腫れてない方がいいよね、と鏡を見て思いながら、同時に考えていた。
(それって女の子が考えたの? それとも男?)
 自嘲気味に顔を歪ませた少女が鏡に映っていた。


(その2へ)


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