日曜日 思い出のチョーカー(その2) 太陽も大分高くなり、凛太郎達の陰も小さくなる。段々陽気も良くなってきて少し汗ばむに位になってきていた。時間的にお昼にはまだ早すぎたし、市立図書館は凛太郎達が乗車した駅まで戻らなくてはいけない。三人は聞き込みで乾いた喉を潤すためにコンビニで清涼飲料水を買い、聞き込みの時に発見した小さな公園で一休みする事にした。 公園には咲き始めた花が色とりどりの姿を見せている。生憎凛太郎には草花の知識がなかったから、綺麗だなと思っても名前が解らなかった。 その花が植えられてる花壇が公園の外周を飾り、左右の両端と奥にベンチがあり、奥のベンチの右横にはブランコがあった。三人は奥のベンチを選んで右から笑、凛太郎、修一の順で座った。このベンチだけ周りを木が生い茂り丁度いい日陰を作っていたから。 「五月だってのにあっついなー。リンタ、ちゃんと汗拭いとけよ」 「デニムのジャケット着て来るんじゃなかったよ。汗でべとべとだもんね。あ、修ちゃんそれ貸して」 そう言って凛太郎はバッグを受け取り、中からタオル地のハンカチを取り出した。首の汗をよく拭う。 「なんかさ、変わってから汗かいても痒くならないのがいいんだよね」 ちょっと嬉しそうに凛太郎が言う。修一は中学の時から汗をかいては「痒い」と言い続けていた親友を知っていたから、思わず良かったなと言いそうになった。 (? そこで嬉しいってのは、女の子になって良かったって事か?) ふと修一が凛太郎の足を見ると、きちんと膝を揃えて座っている。一昨々日あたりとは全く違った。千鶴の車の中では普通に男のように膝が開いていたのだから。 凛太郎の何かが変わりつつあるのか、修一は少し気になっていた。 「……でね、この辺に汗が流れてくるから、汗疹になったりしないかって思うんだ」 「うーん、こっちって言うよりこの辺とか、後ろとかの方があたしはなりやすいかなあ」 考えているうちに修一の右の方で凛太郎と笑が盛り上がっている。修一も話しに混ざろうと後ろから覗き込みながら聞いてみた。 「へ、どこが?」 クルッと凛太郎が振り返る。 「だからここだって、ば? あっ」 凛太郎はVの字になっているカットソーの襟に指をかけ、下に引っ張っていた。白い柔らかそうな二つの乳房とそれが作り出した少し汗に光る谷間、そしてレースに縁取られたブラジャーが目の前にあった。 凛太郎の行動は素早かった。瞬時に真っ赤になりながらも、右手で襟を引き上げ左手はジャケットの前身ごろを引き合わせる。そして両手で胸を抱きかかえるように修一の前から隠し、咄嗟に前屈みになった。これで「きゃー」と叫んでいれば完璧だったけれど、さすがにそれは無かった。 笑にも修一にも一言も発っせさせる事無く、凛太郎は状態を屈んだ状態から修一の様子を窺った。 「みみみみみ見たっ?」 「ななにを?」 やっと言葉を発する修一に、笑が凛太郎の背後から冷ややかな視線を送っている。 「おにいちゃーん……すけべっ」 笑は凛太郎に「大丈夫だよ」などと言っている。何が大丈夫なのか。 (いや、俺が悪いのか? だって、リンタがっ、リンタが胸見せてっ。リンタの胸っ?!) 「俺、見てねーって。いやちょっと見えたけど見えてないっ。大体男同士だろ? な? プールでも一緒だったじゃねーか? 今更っ……」 凛太郎の白い胸と、その後見せた「女の子っぽい」リアクション。今まではどこかで「男」だと思っていたが、修一は何となく凛太郎が好むと好まざるとに係わらず、女の子寄りになっていると感じた。しかしそんな事を考えている場合ではなかった。今ある危機を乗り越えないといけない。 ゆっくりと凛太郎が上体を起こす。まだ両手は胸を隠すように前で組んでいる。ちょっと涙目に見えるのは気のせいかも知れない。 「……修ちゃん、僕たちって男同士だけど、やっぱり身体見られるのって恥ずかしいんだよ。自分が映った鏡見てもえっちいって感じるし……。今更って言うかも知れないけど……見られるの嫌だから……」 凛太郎のどこかで「修一をオカズにしてたっぷりイキまくったくせに」という意識があった。胸がずきずきと痛んだけれど、見られるのが嫌なのも事実だった。特に修一には女の子として見られるのが嫌という感情と、女の子だから見たれたら恥ずかしいという感情が同居していた。 「わ悪い、リンタ。ごめん」 「ほんとだよ、覗くなんて悪のりしすぎ」 関係ないのに笑が追い打ちをかける。べぇっと舌を出していた。 「こっちもごめん、不注意だったから。気をつけるね」 顔を赤くしながら凛太郎も謝っていた。 * * * * * * * * * 公園を後にして駅へ向かう。駅前に近づくにしたがって次第に人通りも増えてきた。笑は凛太郎の手を引きながら、ちょろちょろと気になる店の前やアクセサリを並べる露店の前で立ち止まってしまいなかなか駅に着かなかった。 「安いよ、よく見て選んでってよ」 サングラスをかけ髭を生やしたお兄さんが調子よく、見るのを促している。 笑は並べられているアクセサリを前にはしゃいでいた。それから素早く目を動かし、物色し始めた。 「凛ちゃん、ほらこれ可愛いよ」 「うーん、僕こういうのあんまり……」 シルバー細工の指輪やネックレス、小さなきらきら光る石のついたピアス。値段は千円、二千円と手頃だったが、凛太郎はちらっとそれを見ながら言った。 「前向きに前向きに、でしょ。女の子はこういうの好きなんだよ。これなんか凛ちゃんに似合うと思う」 後ろから凛太郎と笑の頭越しに修一が覗き込んでいる。何か考えているようだ。 「……可愛いっていうならこっちの方が可愛いかなぁ」 凛太郎は笑が選んだ細い鎖に青い石がついたネックレスと、自分が選んだ銀の犬を象ったペンダントがついたチョーカーを見比べていた。 「それって可愛いでしょ? 結構人気商品だよ。もう残りがそれしかないからね」 お兄さんは営業トークに移っている。 「リンタって犬好きだっけ?」 後ろから修一が尋ねる。犬が好きとは聞いたことが無かったから。 「ワンコ、好きだよ。でもアレルギーで飼えなかったから。僕がぬいぐるみ持ってるのも変でしょ?」 凛太郎の様子を見ると、ちょっと迷っているようだった。笑が振り返り修一を見る。 (なんだよ? あ、笑、ナイス!) 修一は手早く財布を取り出した。 「お兄さん、それ下さい。二千円ですよね。これで」 「プレゼントいいねぇ。可愛いので包んでやるよ。彼女、良かったじゃん」 二カッと笑いながら修一の出したお金を受け取ると、チョーカーを台から取り上げ包みに入れた。 その様子に凛太郎が慌てる。 「え、ちょっと修ちゃん、買い物に来たんじゃないし、買うなら僕が買うよ。僕彼女じゃないですよ」 ポケットから自分の財布を取り出しながら、お兄さんに訂正する。 修一は財布を持った凛太郎の手を押し戻した。 「いいから。来月リンタの誕生日だろ? 早いけどプレゼントだって。気まぐれだから受けとっとけって」 それでもまだ「でも」と言う凛太郎に笑も言う。 「お兄ちゃんがくれるって言うんだし、貰っておきなよ。さっきのお詫びもあるし」 「そうそう、女の子はプレゼントを受け取る。俺達男はプレゼントをあげる。で、俺は儲かる。いいねぇ」 お兄さんまで言い始めた。彼の場合は純粋に商売からだったが。 三人に言われ、凛太郎も渋々受け取った。 (いいのかな……。でも修ちゃんからのプレゼントだ。何となく嬉しいって思うのは……。そう、ワンコのだからだよねっ) 敢えて修一への想いには気づかない振りをした。それを考えたらどんなに言われても受け取れなくなってしまう。 「うん、わかった。ありがたく貰うね。ありがとう」 ちょっと照れながら凛太郎は受け取った。修一はと言えば自分が買ったチョーカーを身につける姿を想像して悦に入っていた。凛太郎の白い首筋を飾る黒いチョーカーと銀の犬。ちょっと首輪っぽいかなとも思った。 「ねぇ、あたしには?」 笑がニヤニヤ笑いながら修一に強請った。 「お前にはやらん」 修一は即座に答えていた。 * * * * * * * * * 結局駅に着いたのは昼近かった。駅前のハンバーガーショップで昼食を採り、電車に乗り込み元の場所まで戻った。 市立図書館は駅からバスで十分程。自転車でも急げば十五分程度の距離がある。凛太郎の家からだと駅を跨ぐ形となり三十分位の距離だった。鉄筋コンクリートづくりで白い壁。内部は三階建てとなっており、司書が十五人程いる比較的大きな図書館だった。最近では図書館事業のコスト削減のため、市営から民間業者へ運営を任せるという案も議題に上っている。利用者である凛太郎達にとってはどうでも良いことだったが。 日曜日のためか、子供連れの主婦や既に仕事を退職し、趣味で何かを調べている人、教科書や参考書を広げている受験生らしき顔が多く見られた。 凛太郎達は、貸し出し用のカードを受け取った後、コンピュータの蔵書検索システムで、目的にあった本を絞り込もうとキーワードを入力しようとしていた。 「女性化……かなぁ。えい」 凛太郎がコンピュータに陣取り、両脇から修一と笑が画面を覗き込んでいる。 検索結果は十六件該当した。何やら労働力の女性化だの、社会的地位だの、ジェンダーがどうのといったいわゆる「大人向け」な内容の本しか引っかからない。 「どう考えても違うだろ。これは内容難しすぎだって」 横から修一が口を挟んだ。凛太郎自身もこれは違うと思っている。 「えーっと、次は……。これかな」 凛太郎は「変身」と検索ワードを入力した。該当が293件も出てきた。今度はかなりずばりなものがありそうと、期待した。 「結構あるのね」 今度は笑が聞いてくる。 「うん、でもこの辺なんかは学校で見た小説だし、多分これも似たような本だと思う」 ヘルマン・ヘッセやカフカの小説を指し凛太郎が言った。学術的な本を探したかったが中々見つからない。少年少女向けの小説の類がかなりあった。 じっくり見ていると、西洋や東洋の民話関係の本も多くある。凛太郎は学術書から民話や魔術と言った本へ、焦点を変えてみることにした。 「……リンタ、それって」 修一が少し心配そうに聞く。実は修一はオカルトっぽいのが好きではない。 「何でも試してみないと」 振り向かず、キーワードを入力する。「魔術」と。 検索結果は660件に達した。「ありゃ?」と凛太郎は意外そうな声を上げた。こういうマニアックな題名を持つものが公立図書館に660冊もある……。どんな基準で本の購入を行っているのか不思議だった。 しかしよく見ると真面目に魔術や占星術、錬金術の歴史を取り扱った研究報告書が多く、目当ての「本当の」魔術に関しては出てこない。三人は安堵とも溜息ともつかない息を吐いた。 「凛ちゃん、ここに項目ってあるよ。これで限定できるんじゃないかな?」 じっと画面を見つめていた笑が、画面の一部分を指差しながら言った。凛太郎は指された場所をクリックしてみる。すると、かなりの分類に分けられた項目が出てきた。 「あ、ほんとだ。気づかなかったよ。ありがと、笑ちゃん」 笑に振り向きながらお礼を言う凛太郎。笑は修一を見ながら勝ち誇ったように口の端を上げた。当然修一は面白くなく、笑を無視して凛太郎に目を移した。上から覗く格好になり、また凛太郎の胸が見えそうだった。修一は慌てて視線を画面に固定した。 凛太郎は画面に集中し「民間信仰・伝承」の項目を探しキーワードを入力した。 検索結果が1件。「変身=女性化」という題名だった。 急いで所蔵場所と貸し出し状況をチェックする。まだ借りられていない。PCで貸し出し請求をして、請求番号をメモした。 「修ちゃん、悪いんだけど、借りてきて貰っていい? 借り方わかる?」 凛太郎はくるっと椅子を回して、ちょっと焦った様子で修一にせがんだ。一刻も早く借りないと誰かが借りてしまうかも知れない、そんな焦りだった。しかしよくよく考えればPCで請求した時点で凛太郎が借りられる率は100%だ。それに民間信仰や伝承の類の本がそれ程読まれているとも思えないのだが。 「借り方わかるかって、お前、いくら俺でも解るって。ほんじゃ、行って来るわ」 「う、ごめん。僕まだ検索かけたいからさ。お願いします」 凛太郎は大股でノシノシ歩き柱を曲がった修一を見送ると、再びPCに向かった。 「今度のキーワードってなに?」 笑が不思議そうに聞く。一冊見つけたからまずそれを見てからと思っていた。 「今度のはね、英語」 タカタカとキーボードを叩く。「transsexual」。該当なし。 「うーん……、これは?」 画面には「transgender」と書かれている。笑は首を傾げながら画面に集中している。 該当なし。 「英語の文献てないのかな。カタカナだと……」 カタカナで「トランスセクシャル」と入れてみるがやはり該当なし。試しに「TS」「TG」と入れてみても無かった。 「今日はこれで最後かな」 そう言うと「トランスジェンダー」と入力した。該当19件。「あっ」と笑が小さく声を上げる。 「あるね、そのキーワード。どんなのかな」 そのまま笑が少し画面に身を乗り出してきた。凛太郎は笑の「女の子」の甘い匂いに、ちょっと戸惑った。 (……あ、笑ちゃんいい匂い。僕とちょっと違うんだな。女の子ってそれぞれ違いあるんだ……) 自分のベッドに染み付いた自分の匂いとも少し違ういい匂い。「自分とちょっと違う匂い」は、自分にも「女の子」の匂いがある事を示していたのだが、凛太郎は気づかなかった。 笑は「どしたの?」と自分を見つめる凛太郎を見ていた。凛太郎は「はっ」として直ぐに画面を見る。 「えっとっ、中身はっと」 匂いに反応していた自分を悟られないように、わざとらしく言葉を発していた。 画面を見ると「性同一性障害」と出ている。凛太郎もこの疾患については聞いたことがあった。 「凛ちゃん、これ何か知ってる? 病気かな?」 笑がきょとんとして聞いてくる。凛太郎は一応知っている事だけを伝えた。 「性同一性障害って、確か男の人の場合、身体は男なんだけど心は女って思ってて、それが心理的な病気に繋がるとかなんとかだったと思うよ。身体を手術しないと心の病気が治らない、だったかな? 女の人だとその逆で心が男って思うんだって」 甚だ乱暴な説明だったけれど、笑はなんとなく理解したようだった。 「凛ちゃんとは……違うよね?」 「うん、違うと思う」 心と身体が割れている状態。多分似ているのだろうと凛太郎は思っていた。しかし根本的に身体を強制的に変化させられ苦しんでいる凛太郎は、やはりこの疾患で苦しんでいる人たちとは違うと思った。 「一応、今日はこれでおしまい。後は修ちゃんが借りてきてくれる本を見るだけかな」 凛太郎はPCの画面を最初のページに戻すと、笑を振り返りながら言った。 「お兄ちゃん遅いよね。やっぱ解んなかったりして」 修一が歩いていった方向を見たが、まだ修一の姿は無かった。 「……そうかも。貸し出しカウンター行ってみよか。修ちゃんと出くわすかも知れないけど」 「うん」 凛太郎はディバッグを肩に掛け、笑と連れ立って貸し出しカウンターへ移動した。 二人が柱を曲がると丁度修一が本を借りて戻ってきたところだった。修一は本の中身をしげしげと眺めながら歩いていた。 「おっ、と。あれ? なんでこっち来てんだ?」 突然現れた二人に、修一はちょっとびっくりしたようだ。笑がすかさず言う。 「遅いよぉ。解んなかったんでしょう?」 「んなわけあるかっ。なんだか貸し出しカウンターがめちゃくちゃ混んでたんだよ」 少し興奮気味に言う修一に笑は「あ、ほんとにわかんなかったんだ」と感じていたが、敢えてそこからは追求しなかった。 「修ちゃんありがとね。邪魔になっちゃうからあっちで読もうよ」 廊下で立ち話状態になっていたため、少し通行の邪魔になっている。凛太郎は人に迷惑がかかるのを恐れ、数人で座れる長机への移動を促した。 「お、そうだな。あっち行こうか」 三人が並んで座れる場所を見つけそこに陣取る。やはり中心は凛太郎で、両脇に笑と修一が座った。 「リンタ、ちょっと言っとくけど」 目を期待に輝かしてその本を見つめる凛太郎に、徐に修一が言った。 「え? 何?」 言葉には出さないが、「早く読みたいのにっ」と言う目つきで修一を見つめている。 「これさっきちょっと見たけど、結構怖いかも知れねーぞ」 修一の真剣な眼差しに、凛太郎も表情を固くして答えた。 「うん」 その本は表装が革張りの本だった。濃いブルーの表紙には題名のみが書かれている。1960年代が初版となっていた。厚さは五センチ近くありそうだ。持ってくるだけでも一苦労しそうな代物だった。 ごくっと笑の喉がなる。さっきから一言も無く緊張しているようだった。それは当然、凛太郎も修一も同様だったのだが、今は内容の確認と好奇心が先行している。 凛太郎の綺麗な白い手が濃紺の表紙に映える。ゆっくり表紙を捲っていく。革の感触の為か、凛太郎にはその本が妙に冷たく感じられた。 目次へ向かってページを繰っていく。目次では魔女だの黒魔術だのの方法論や成功事例などと言う突拍子もない内容が書かれている。凛太郎はそれらには一切構わず、彼が目的とする単語を目次から探していった。凛太郎が探している単語、それは「夢」「夢魔」と言った類だった。そして後ろの方にそれはあった。 「凛ちゃんが探してるのって何?」 笑が聞くと、凛太郎は目次の単語を指した。 「これ、夢に関係ありそうな、魔物の類を探してたんだ。僕自身が非科学的な存在なんだもん、そうした奴ってもっと非科学的な存在だろうと思って」 目的のページまで一気に広げる。少しかびの生えた臭いが凛太郎達の鼻に達していた。これまでの凛太郎には、かびはアトピーにとっても花粉症にとってもあまり良くないものだった。しかし女性化した今は違っていた。臭いは感じるけれど、以前のようにクシャミが連続する事は無かったし、痒みが出そうに感じるという事は無かった。 「……あった、これだ」 ――夢魔の項。キリスト教世界において信じられていた「夢魔・淫魔」の類。人にとり憑き夢を見せることで人を堕落させ、夢魔に引き入れる。一般には「サキュバス・インキュバス」と呼ばれ、いやらしい夢を見せ人から精を搾り取る…………―― 「なんだかスケベな魔物だよな。リンタ、夢でなんかされたか?」 修一が素直な感想を言った。笑は内容を見ながら少し顔を赤くしているようだった。 「……な、なんにもないよ。精を搾り取るとは書いてあるけど、そんな夢見てないし……。あ?」 ふと凛太郎は脳裏に「女」の声が過ぎった。初めて夢で声を聞いた時、あの「女」はなんと言っていたか。 「なんだよ、やっぱなんかあったか? お兄さんに言ってごらん」 少しスケベな顔をしながら修一が冗談半分に凛太郎を覗き込んだ。凛太郎は真顔で修一を見つめ返す。 「最初に夢を見たとき、声が聞こえたんだ。『後はたっくさん絶望を頂戴ね』って……」 凛太郎は身体をぶるっと震わせ、続けた。 「この本だと「精」って書いてあるけど、もし、違う種類のがいて、「絶望」だけを搾り取るようなのだったら、僕っ、ずっとずっとこのまま、苦しみ続けるっ?!」 今にも泣きそうな表情で、段々声を荒げてしまっていた。修一はそんな凛太郎の様子を見て、凛太郎の両肩に手を置き静かに言った。 「まてまてまて。結論急いで出すなって。いいか? まずそういう類の魔物がいるかどうかわからん。リンタが見た夢が、この状況だから自分で怖くなって作り出したものかも知れない。仮にいたとして、変えたんなら普通は戻す方法も知ってるはずだ。あるいはこの本に退治する方法が書いてあるかも知れない。俺も笑も一緒にいるんだから。とにかく落ち着けよ」 涙目でじっと修一を見つめる凛太郎は、タオル地のハンカチで両の目頭を押さえた。修一は凛太郎を挟んで向こう側に座っている、硬い表情をした笑をチラッと見やった。しかしさすがの笑もかける言葉が中々見つからない。 「でもっ、修ちゃんはオカルト嫌いだからいないって思うんでしょ? 僕はこうなっちゃったから解るんだ。こんな風になるのは普通じゃないんだよ。みんな言うんだよ、そんな馬鹿な事はあるわけがないって。その馬鹿な事が起きちゃったんだ。科学的なことじゃない、非科学的なんだ。僕の存在自体が。だからそれを起こしたのは人間じゃないんだよ。僕には解る……。大体、僕が変わった事にみんな理解があり過ぎるよ。もっと普通は驚くでしょ? 気持ち悪いって思うでしょ?」 凛太郎は目にタオルを押し付けたまま、静かに話していた。修一は悲観主義者ではなかったけれど、今の状況を考えると凛太郎の話が当然のようにも思える。外見を男から女に変えるなら何とか出来るんだろう。しかし内臓や骨格、恐らく遺伝子レベルまで変わっているなら、それは人間業ではない。そう考えれば考える程、凛太郎の説は否定できなくなった。 しかし、それが本当にそうであったとしても、このままほって置く事など出来ない。大事な凛太郎を苦しまない次善の策を考えないと。 「なぁ、考え方を変えようぜ。今の姿を嫌だとか否定しようと思うから苦しくなんだよ。女の子でいろって言ってる訳じゃねーぞ。絶望とか悲観しないためにどうすれば良いかって考えるとな、笑が言ってたようにするのが一番だと思わねーか?」 凛太郎は顔を上げて何か言いたげな目で修一を見た。 「お前って今、他の誰も出来ない体験をしてんだよ。普通ずっと男なのに、女の子の気持ちも味わえるなんてすごいだろ」 修一は凛太郎の心中が解っているのかいないのか、話を続けた。 「別に人生二回分じゃないけど、違う道が解るってのはすげーって思う。お前って元に戻ったら女にすごく詳しい男になれる訳だぞ」 「……」 修一の意図している事がさっぱり判らず、凛太郎黙ってそれを聞いている。 「だからな、その女の魔物って絶望を喰うんだろ? 絶望なんか金輪際してやらなきゃいいんだよ。楽しんじゃえよ、女の子になったって言う事を。でもな、リンタはリンタなんだから、男なんだって最後で覚えてればいいんだよ。恥ずかしい事があったりしたら俺に言えばいい。言って心が軽くなるなら何でも言ってくれ。嫌な事があったら俺が守ってやる。楽しんでる間に戻る方法を見つければいいんだよ。今日だけじゃないだろ、探しに来んのは」 修一の言わんとしている事は、凛太郎にも理解出来る。確かに楽しめればそんなに楽な事は無いのだから。しかしそれが出来ないから苦しんでいるんだから。 「言うのは簡単だよ。でも女の子でいる事を楽しんだら女の子になっちゃいそうで怖いんだ。今だって」 凛太郎はなんだかんだとなし崩し的に、段々自分が女の子っぽくなっていると感じていた。下着を着けた時もそうだった。なにより自分の心が男に惹かれている。女の子っぽい格好や仕草なんてしたら、それこそ身も心も成りきってしまいそうで怖い。しかし同時に男であろうとすると、女の子の身体が欲望を欲し、欲情に神経が焼き切れそうになってしまう。そして自分を慰める。でもその後は猛烈な罪悪感と空しさが心を埋めてしまう。どっちに行くにせよ、罪悪感、言い換えればマイナスの感情が生まれてしまっていた。そしてそれが「絶望」に近い感情だった。一昨日から、そんな事ばかり考えるようになっていた。 「電車の中で前向きになるって言ったろ? 今から実行すんだよ」 修一が少しキツ目に言うと、凛太郎はまっすぐ修一の瞳を見た。 「楽しめば気持ちが楽になって、方法を探す時間も取れるって事を言いたいの?」 「そう。その為のバックアップは俺が、時々笑がする」 強引だと、凛太郎は思った。でも、その強引さが修一だったし、少しでも元気付けようとしているのも痛いほどに解った。だから凛太郎は、自分を思って言ってくれている修一の為に、楽しんでみようと考え始めていた。例えそれが、自分を苦しめる方法だったとしても。 今の凛太郎は、女の子の快楽を得たり、修一を気にしたり、とにかく女の子である事にポジティブな心境になると、心がかき乱されるようになった。特に修一を思う時、罪悪感と自己否定が一緒になり、自分の心を殺したくなってしまう。 今だって、「女の子でいる事を楽しむ」と考えただけで、強烈な自己否定が生まれている。心が痛かったけれど、修一が提案してくれたのだから、守ってくれるのだから、それだけで耐えられると思った。 「それに楽しむって言っても、色々あるだろ? 男が女の子の身体持ってるんだからさ」 修一がなんだかデリカシーに欠けた話に持って行った。修一からすると妙に真剣な話になってしたので、少し落ちをつけたかった。 「修ちゃん?! ぼっ僕そんなっ、ひとりえっちなんてしてないよっ。あっ!」 凛太郎はそれを聞くなり、首まで朱に染まりながら、自分の手で口を塞ぎ周りを見回した。 それを見て修一も笑も同時に「したな」と思っていた。 (その3へ) |