二日目 魔物(その1)


 昨日は晴天に恵まれたが、今朝は少し雲が出ていた。夜中にあの女性の事を考え、途中で何度か目が覚めてしまい、今日は寝不足気味だった。
 眠い目を擦りながら、一階のトイレに入る。トイレも大分なれた。女性化した当日の事はよく覚えていない。どうしていたのか、自分でも不思議だった。二日目からは覚えている。おしっこするにもトイレットペーパーが必要なのには閉口した。面倒くさいと感じながらも、母から清潔にしないとだめと言われ、ウォシュレットも併用していた。浴室でオナニーする前だった事もあり、水滴を軽く吸い込ませる位で、女の子の部分を触るような事はしなかった。今はもう、男子の中では自分が一番女性器に詳しいんじゃないかと変な自慢が出来るくらいだった。
 用を足し、顔を洗いに洗面所へ行くと、もう見慣れた顔が眠そうな半開きの目でこちらを見つめていた。
「おはよう」
 凛太郎が挨拶すると、鏡の向こうでも同じ反応を見せる。一日に何回かは、つい自分を確認してしまう。特に朝のトイレと洗面所で。そしてこれは現実なんだと改めて思わざるを得なくなるのだった。
 顔を洗っていると昨日の事が思い起こされた。途端に鏡に映った少女の顔が赤くなる。
(僕って男が好きな変態になっちゃったのか? 修ちゃんの手って思ったらすごく感じてたし……。女の子の身体になってからちょっとおかしくない……?)
 火照った頬に水に濡れた手を充て冷やしてみる。その仕草が凛太郎には妙に女の子っぽく感じてしまい、慌てて手を離した。
(このままじゃ全部女の子になっちゃいそうだ。早くあの女の人探さないと!)
 何となく、凛太郎は身体に引きずられるように、心まで女の子になっていくような気がしていた。それを振り切るかの様に両手でバシッと頬を叩く。
「今日もがんばろう」
 凛太郎は着替えに自室へ戻ると、手早く下着を着け、再び一階に戻り千鶴の待つキッチンへ行った。

 * * * * * * * * *

 朝食が終わり少しすると修一がやってきた。
「おはようございまーっす。リンター、迎えに来たぞー」
「おはよ。今日は天気良くないね。おかあさん、行って来ます」
「おう、そだな。降らないだけいいよ。千鶴さんいってきまっす」
 奥から玄関に出てきた千鶴に、二人とも挨拶をして門を出た。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 千鶴がにこやかに見送ってくれた。
 少し高台にある山口家からは、下り坂が多くなり比較的楽に学校まで行ける。その代わり帰りはかなりしんどい。昨日のように歩きだとまだいいが、自転車では押して歩く事もある。二三回ペダルを漕ぎ、惰性で進む自転車上から修一が話しかけた。
「リンタ、悪い、日曜なんだけどさぁ」
「え? なんか都合悪くなった?」
 風切り音に話を邪魔されないよう、凛太郎が併走する。
「いや、笑がさぁ、一緒に来たいっていってんだ。どうする?」
 凛太郎にとって一番近しい、肉親以外の女性。学校の女子は掌を返したように態度が変わった。これまで修一の家に遊びに行っても、凛太郎のアトピーを気にしない態度だった笑が、今の自分を見てどう思うだろうか。
「……笑ちゃんには言ってる? 身体の事……」
 目の前の信号が黄色から赤に変わり、二人は交差点で停まった。修一が頭を掻きながら言った。
「あぁ、言ってある。まずかったか?」
 修一は少しすまなげに凛太郎の表情を窺っている。
「まずくはないけど。笑ちゃん、なんて言ってた?」
 凛太郎は横断歩道の白線をじっと見つめながら、修一に尋ねた。
「うん? そりゃびっくりして、大丈夫なのってしきりに聞いてきたよ。リンタ、あいつは俺と一緒で前と態度が変わるこたないよ」
 修一は笑が凛太郎に自信を持てと言っていた事も知っていた。笑みがどんな人間なのか、誰よりも知っていると思っている。だから兄妹としてだけでなく、一個の人間として笑のフォローをした。
 凛太郎も笑は修一の妹としてだけでなく、好きだった。男女間の「好き」ではなく、人として、年下だけれども尊敬もあったし好感を持っていた。しかしだからと言って、そのまま鵜呑みには出来ない。きつい事を言えば、修一だって表面上は変わらないが、どう考えても時々凛太郎を女の子として見ているのだから。
「そうだね……でも、少し考えさせてよ……」
 きっと嫌な顔してる、そう思った凛太郎は、修一にその表情を見せないように、信号が青に変わるや否や猛然とダッシュした。
 学校までの道のりは殆ど競争になっていた。もっとも体力的に劣る凛太郎が負けていたけれど。学校に近づくにつれ生徒が多くなってくる。そしてそれに比例するかのように、凛太郎をじろじろ見る目も増えていった。ただ、スピードを出していたため、余計な雑音が入ってこないのは、凛太郎の心理的には楽だった。

 * * * * * * * * *

 登校時、学校の正門前には「鬼」が立っている。柔道部顧問で大原という体育教師だ。十数年も前、この学校に赴任する以前ボンクラ学校に努めていた彼は、変形学生服を着た生徒が登校したところいきなり投げ飛ばし、その制服を剥ぎ取り、焼却炉で燃やしたという。そんな伝説を持つ教師だった。だから生徒はみんな登校前に身だしなみを整え、正門をくぐるのが普通だった。
 凛太郎は嫌な予感がしていた。しかしこのまま進むしか無い。正門をくぐり大原の横を通りすぎようとする。
「おい、そこのお前。ちょっとこっちこい!」
 大原が凛太郎を呼び止めた。凛太郎は大原の側までいくと自転車を降りた。
「いつからジャージで登校できるようになったんだ、ん?」
 自分だってジャージにサンダルじゃないか、と凛太郎は思ったものの、朝からトラブルも起こしたくないし、正門前でこれ以上の注目を浴びたくもなかった。
「すみません、まだ制服が出来てないんです。制服できるまでジャージでいいっていうので」
「なにぃ? 俺はそんな話聞いてないぞ」
 大原の大声に、生徒がこちらを注目し出した。
「前の制服があるだろうが。それを来てこい。今日はジャージなんか脱いで授業受けてろ。罰だっ」
「そ、そんな、ジャージ脱げって言われても……」
(上はTシャツ来てるからいいけど……、下脱いだらパンツだけになっちゃうよ……)
 周りには人垣が出来始めていた。小声で「脱げ脱げ」と無責任に言っている生徒もいる。凛太郎は真っ赤になってフリーズしてしまった。
「なんだ、お前。俺の言う事に従えないのかっ?」
 尚も圧力をかけてくる大原に、成り行きを見ていた修一がキレた。
「大原先生!」
 凛太郎と大原の間に立ち塞がるように歩み寄った。大原は自分より一回り大きい生徒に少しビビったように下がる。
「なんだ、諸積」
 武道場は剣道部と柔道部が共用している。だから剣道部の有望な一年生である修一の事を大原も知っていた。
「山口君の制服が出来るまでジャージ着用を許可したのは校長先生と理事長先生です。嘘だと言うなら確かめて下さい。昨日の朝の職員会議で決まった事です」
大原は何事が思案すると、いきなり大声で言った。
「お前等、もう行ってよしっ」
「はい、失礼しまっす」
 修一も最敬礼するように応えると、止まっている凛太郎と自転車をひきずり、その場から早足で逃げ去った。
「ったく、職員会議で寝てんじゃねーのか、大原のヤツ」
 昇降口にたどり着き、修一が口を開いた。
「ご、ごめん、修ちゃん。また迷惑かけちゃった」
 下を向きながら凛太郎が謝ってくる。修一はその姿が気にいらなかった。
「リンタ、今のはこっちに非が無いんだから、絶対正しいんだから自信持て」
「……うん」
「ちゃんと主張すべき事は絶対する事。いいか?」
「うん、解ったから……」
 昇降口からクラスへ移動しながら、修一が諭す。2組まで来ると凛太郎から切り出した。
「それじゃ、昼休みに。後でね」
 そう言うと教室へ入って行った。

 * * * * * * * * *

 それからの凛太郎は大きなトラブルも無く過ごす事が出来た。大きな、例えばみんなの態度がまた変化した、とか、やっぱり学校は辞めろ、とかそういう類のトラブルが無かっただけで、相変わらず凛太郎の周りは、新しいものを見るような、特殊な生物を見るような、そんな目つきをした生徒が群がっていた。
 やはり男子生徒は、一般社会ならばセクハラで人生崩壊しそうな質問や、際どい話ばかりだった。凛太郎が元々男という気安さもあったのか、やたらとべたべた身体に触ってきたり、胸を揉もうとしたり、お尻に触ったりとしきりに構ってきた。これまで男子生徒に対しても、身体に触れる事が少なかった凛太郎としては、非常に精神的に疲れてしまっていた。勿論、これまで自分の肌の汚さを気にしていた事を考えると、何の遠慮も無く触れたり、肌を見せる事が出来るのは喜ばしい事だったが、この飴に群がるアリのような女の子の身体目当ての彼らが、正直鬱陶しかった。
 女子はと言えば、これも男子と変わらずかなり際どい話をしてくるし、中には「生理もう来た?」という生徒までいた。しきりに肌を触って来るクラスメイトもいた。以前の凛太郎が話しかけると、露骨に視線が首に行ったり、肥厚している部分に行ったりしていた女子が、慣れ慣れしく近づいて来たのには閉口した。
(そんなにネタが欲しいんだろうか? これまで話したことも無かったコとか、肌が触れただけで嫌な顔したコもいたのに。この違いようは酷いな)
 そんな状態だったので、凛太郎は授業の間、机に突っ伏して他者を拒否する事で対応していた。何のことはない、以前と一緒で結局孤独だった。

 * * * * * * * * *

 昼休みの時間、凛太郎は修一の所へ行った。
「修ちゃん、お昼一緒に食べようよ」
「おう、部室行って食べようか」
 唯一と言っていい凛太郎の安らぎの時間。二人は部室棟へ行く途中、食堂へジュースを買いに寄った。そこは戦場さながらだった。上級生も同級生もパンを買おうと群がっている。テーブルではランチやうどんを食べている生徒が、ジャージ姿の凛太郎を認めると箸を止め、ちろちろと見てきた。
「リンタ、あんま気にすんなよ」
 なるべく凛太郎を壁沿いに隠すように移動している修一が、厚かましい視線を感じ気遣うように言った。
「ん、だいじょぶ。気にしないよ。修ちゃん一緒だしね」
 自販機で凛太郎がウーロン茶を、修一が牛乳パックを買い、剣道部室へ向かった。

 この学校では剣道部は男子と女子に別れている。当然部室も二つに分かれており、男子部室には防具や竹刀、木刀の類が所狭しと置かれている。整頓という張り紙が壁にあったが、あまり効果は無い様だった。
 凛太郎は何度かここに来た事があった。修一と一緒に帰る時に、あまりに遅い場合だけ呼びに来たのだった。
「ご飯食べても怒られないかな」
 少し心配になり、凛太郎は修一に尋ねた。自分のせいで修一の立場が悪くなるのは避けたかった。
「どうせ、誰もいないから平気だよ」
 そう言うと、扉をガラッと開けた。
「なんだ? 諸積、どしたんだ?」
 奥から驚きの声がした。低い響く声だった。
「あ、部長。すみません、こいつとここで飯喰おうって……」
 少し慌てた風で修一が取り繕った。凛太郎は修一の後ろから「部長」と呼ばれた人物を覗き見た。ブレザーを脱いでワイシャツ姿の彼は、短髪で色白な顔に縁のないメガネが似合っていた。優男っぽい感じがしたが、顔に似合わない広い肩幅と盛り上がった筋肉、そして鋭い目つきがそれを否定していた。
「諸積、女連れ込むのはいいけどな、行き過ぎるなよ。ほら、遠慮しないで中入ってお前らも食え」
 自らも大きな弁当をむしゃむしゃと食べている。修一は促されるまま、凛太郎を連れて入った。
「横、失礼します。部長、女連れ込んでませんよ。彼です、彼。男ですから」
 「部長」はふっと視線を上げると、凛太郎を見、そして溜息交じりに返答した。
「お前、どこをどう見ればこのコが男に見えんだ。いくら彼女だからってそりゃ酷いぞ」
「……えーっと、彼女でもないんですけど。どうすっか、リンタ」
 彼女と言われてから、妙に顔が赤い修一が思わず凛太郎に助けを求めた。
「山口です、よろしくお願いします……」
 仕方なく、凛太郎は自己紹介をした。これじゃ自分で自分の事広めてるようなもんだよ、と修一を少し恨みながら。
「山口? ヤマ・グ・チ……あぁ、はいはい。まぁ、そんな事はいいから早く食べなさい。時間もったいないでしょ」
 少し口調が柔らかくなった「部長」が、一緒に食べるように言った。
「リンタ、うちの部長の脇田さん。すげー強ぇひと」
「うん」
 紹介して貰ったのはいいが、なんと答えて言いか解らない。部室へ来た時には会った事は無かった。ただ凛太郎はこの脇田に好感が持てた。じろじろ凛太郎を見ず、わき目も振らず食べている姿がどこと無く修一に似ている気がした。
「うーまかった。ご馳走さん」
 脇田はそう言ったきり、剣道の雑誌を見始めてしまった。凛太郎と修一は少しぎこちなく、黙々とお弁当を食べ続けている。部室内はちょっと緊張した空気が漂っていた。
「なんだよ、随分静かに喰うんだな。俺邪魔か?」
 顔も上げずに脇田が話しかけてきた。
「いや、そんな事無いですよ。部長、なんでここで飯喰ってんですか?」
 ご飯を口いっぱい頬張りながら、修一が問うた。脇田は少し顔をあげ修一と凛太郎を見比べる。
「そりゃ、三年の殺伐とした雰囲気よりいいだろ。俺みたいに進路はっきりしてる奴だけじゃないからな」
 脇田は体育大への進学を希望していた。勿論剣道が続けたいがためだった。
「あー、そうなんすか。受験かぁ、まだ先の話だなあ」
「あほかお前。中学ん時考えてみろ。すぐだぞすぐ。ちゃんと勉強もしとけよ」
「はぁ、そうっすね」
 修一の気のない返事に、脇田は苦笑いを浮かべていた。
「修ちゃんはほんとに真面目にやらないと、どこも行くとこなくなるよ」
 凛太郎は極めて冷静に言った。高校受験の時もかなり焦って、よく凛太郎が勉強を教えていたりした。笑が修一を肉体担当と呼ぶ理由はこの辺にあった。
「俺は警察入りたいからなぁ。剣道だけで入れねーかな」
 警察に入ること自体も大変な事だと言うのに、そこが解っていないのが修一たる所以だった。しかし凛太郎はそれ以外の事に驚きを隠せなかった。
「ええっ? 修ちゃん、大学行かないの?」
 凛太郎は箸を止め、大きな目を丸く見開き、隣に座っている修一を見上げた。当然一緒に大学へ行くだろうと思っていた修一が、自分と全く違う将来を見ていた事に、そしてそれを考えていた修一に、全く気が付かなかった自分にショックを感じた。
「あ、言ってなかったっけ? 俺昔から警察に憧れてたんだ」
「……知らないよ、そんなの。全然。聞いたこともないよ」
 凛太郎はムスッとして、お弁当を見つめた。食べようとしたが胃の辺りがきゅっと絞まって、これ以上食べられそうもない。
(なんで今まで黙ってるんだよ。今になって言わないでよ。昨日、ずっと一緒って言ったじゃんか。修ちゃん警察行って僕が大学じゃ離れちゃうじゃんか。なんだよっ。もうっ)
 ガチャガチャと乱暴にお弁当箱を片付けると、凛太郎はいきなり立ち上がった。
「ご馳走様っ。脇田先輩、失礼します。修ちゃん、僕教室帰るからっ」
「え、ちょっと、リンタ、待てよ。俺まだ途中……」
 凛太郎は修一の声にも振り返らず、そのまま部室を出て行ってしまった。成り行きを見守っていた脇田が口を出した。
「諸積、あれはまずいだろ。彼女、じゃないか彼か、一緒の大学に行くって思ってたんじゃないのか?」
「えぇ? まずいって何がですか? 一緒にって?」
 慌ててお弁当の残りを口に掻き込んでいる修一は、何が何だか解らないという表情だった。
「……わかんなきゃいいよ。しかし、女の子だよなぁ」
 脇田は修一の鈍感さに頭を抱えながら、少女の後ろ姿を思い出していた。

 * * * * * * * * *

 凛太郎はプリプリと怒りながら教室に向かっていたが、次第に自分の態度に自己嫌悪に陥り始めていた。
(これじゃ、彼氏に遠くに行かれちゃう女の子見たいじゃないか。あー、なんかまずいかなぁ)
 午後の授業にはまだ時間があったため、部室棟から第二教室棟へ抜け、昇降口は通らず右手にある渡り廊下を使い事務棟へ行った。そして教員用の女子トイレに入った。教室へ戻ればクラスメイトの下らない話の相手をしなければならないだろうし、恐らく凛太郎の態度を心配した修一が、クラスに来る事は目に見えてる。生徒が入ってこない教員用トイレは、一人で考えるには一番いい場所だった。
(やっぱりあの態度は拙かったよな。修ちゃん心配してるかな。でも、大事な事黙ってた修ちゃんも悪いよ。あ〜もう、なんで落ち込んじゃうんだろう……。こんなんで落ち込んでる自分がやだよ)
 帰りには顔を会わせなくてはならないし、もやもやした感情は出来るだけ無くしておきたかった。気分を切り替える為にばしゃばしゃと顔を洗ってみた。鏡を見ると水の粒が玉になって落ちていく。凛太郎は意識を無理やり自分の肌に向けた。
(綺麗な肌って、水はじきも違うよね)
 一〇代半ばの肌なのだから、普通男女ともにそうなのだが、凛太郎には新鮮だった。ボーっと鏡に見とれているとトイレの扉が開いた。
「! 山口君? なにやってるの。授業始まるわよ」
 谷山が凛太郎の背後から声を掛ける。凛太郎は慌てて振り返った。
「せ、先生。あの、女子トイレ入り辛いし、男子トイレはまずいだろうし……。ここならいいかなって……」
「君の状況だから仕方ないとは思うけど、慣れたらちゃんと生徒用に行かないとダメよ。一応教員用だからね」
 実際、トイレの問題は切実だった。自分が非常に中途半端である事を実感させられていた。身体が女の子だから男子トイレには入れない。凛太郎が入ったら狼の群れに子羊が交じるようなものだ。それは凛太郎も理解していた。問題は女子トイレだった。大多数は凛太郎の今の状況を理解し、一緒に入る事も容認していたが、少数は断固として反対していた。凛太郎にも反対する気持ちは良く解る。しかしだからと言って、ずっと我慢する事は不可能だ。凛太郎は仕方なく、体育館のトイレや第二教室棟まで行かなくてはならなかった。谷山はその背景を知らない。
「山口君はもう身体は女性なんだから、遠慮せずに入っていいのよ。さ、早く教室に戻って。先生来ちゃうでしょ」
 簡単に言ってくれるよな、と思いつつも、その事には何も触れず、凛太郎は急いで教室に戻った。
 教室に戻ると、まだ先生は来ていなかった。ガヤガヤと騒々しいクラスメイトを見ながら席に着いた。
「山口くん、諸積くんが探してたよ」
 凛太郎の左隣の席の女子が小声で言う。
「あ、そうなんだ。ありがと」
 凛太郎は修一が自分を心配してくれている事実に安堵しつつ、自分の態度を見て修一がどう思ったか考えてみた。
(突然怒って行っちゃったから、すごく変に思ってるだろうな。でも何で怒ったかなんて全然解ってないんだろうなぁ。僕から謝った方がいいのかな?)
 少し考えた所で教師が入ってきた。凛太郎はそのまま思考を中止せざるを得なかった。

 * * * * * * * * *

 放課後。凛太郎は修一と顔を合わせづらく、ぐずぐずと教室から出るのを躊躇っていた。のろのろとかばんを持ち教室から出ると、廊下には腕組みしながら壁にもたれている修一の顔があった。
「リンタ。お前どこ行ってたんだよ」
 修一の明らかに少し怒気を含んだ言い方に、素直に謝ろうと思っていた凛太郎の心に、間尺に会わないと言う思いが湧き出てきた。
(なんで修ちゃんが怒ってる訳? 僕が怒ってたのに。何にも言わないから)
「別に。トイレ行ってただけだよ」
 修一から顔を背け、5組の方へ歩き始める。修一も遅れず付いて来た。
「大体な、あの態度ないだろ? 何プリプリしてたんだか知らねーけど。何にも言わずに出てくなよ。心配するだろ」
(僕が何にも言わないって? それ違うじゃんか)
 次第に売り言葉に買い言葉の状況に陥ってきたが、止まらない。
「僕はちゃんと教室戻るからって言いました。途中でちょっと寄っただけです。何にも言わないのって修ちゃんの方じゃないかっ?」
 歩きながら徐々に大きくなる声に、周囲の生徒は興味津々という風で見守っている。凛太郎も修一も興奮している為か周りの雰囲気に気づいていなかった。
「なんだよ、それ。俺が進路の事言わなかったからか? 俺だって全部リンタに話てる訳じゃねーぞ。そんな下らない事で怒んなよ」
 その一言で凛太郎の白い肌が、頭の先から指先まで真っ赤に染まった。一階から図書室への階段前でぴたっと立ち止まりしばし俯いてから、おもむろに修一の顔を睨んだ。
「く、下らないって、本気で言ってんの?」
 修一は凛太郎の迫力に多少気圧されたが、あくまでも強気に言った。
「下らないだろ。一々、細かい事まで伝える必要ってあるのかよ。友達同士でも話さない事ってあんだろ」
 見る間に凛太郎の目から涙が溢れてきた。
「じゃぁ、大学行かないって解ってたのに……昨日言ったのって……ずっと一緒にいるって、嘘だったんだ……。心配してるのも嘘なんだ。友達だったらみんな言うと思ってた僕が馬鹿だったんだ。僕の事みんな知ってる癖に……。何でも言えって言っておいて、自分の事は言わないんだっ」
 ずっと情緒不安定だった凛太郎の心は、唯一の拠り所だった修一に裏切られた思いで一杯になっていた。周囲に人垣が出来ているにも係らず、一切気にせずに一気に捲くし立てた。今にも涙がこぼれそうだった。
 修一は、凛太郎の激しさと周囲の生徒に気づきうろたえた。
(あちゃー、やばい事言っちゃったなぁ)
「いや、リンタ、ちょっと冷静になれよ。それとこれとは話が違うだろ」
 他人など構っていられない位激高している凛太郎を、何とかなだめようと修一が近づく。
「同じだよっ。もうっ、いいよっ!」
 ガツッと鈍い音が響く。凛太郎が近づいた修一の向こう脛を思い切り蹴り上げた。凛太郎はそのまま今来た廊下を走って行った。
「痛って、リンタ、ちょっと、待てよ! リンタ!」
 痛い足を引きずりながら、廊下を走って行った凛太郎を追いかけた。3組の前ではクラスメイトから声が掛かる。
「諸積ぃ、痴話げんかかぁ?」
「んな訳あるかっ」
 先を見ると凛太郎が廊下を左に折れ、昇降口へ行ったのが見えた。
 凛太郎は涙を堪えようとしたけれど、溢れ出てくる涙には抗う事は出来なかった。靴に履き替え自転車置き場まで走り抜ける。下校途中の生徒は何事かと振り返っていた。
 カギを開け自転車の列から自分の自転車を引き抜き、サドルに跨った。グッと足に力を込めペダルを踏み抜く。二回三回とペダルを漕ぎ加速させていくと、いきなり目の前に人が飛び出してきた。凛太郎ははっとして思わずブレーキレバーを握り締めた。
 涙に濡れた目を上に上げると、飛び出した人物が凛太郎の自転車のハンドルをがっちり握っていた。
「どいてよっ、馬鹿修! どけってば!」
「いーや、どかん。お前、なんか勘違いしてるぞ。ちっと話聞けよ」
 修一がやっと追いつき、凛太郎の自転車を押しとどめている。
「〜〜〜自転車欲しかったらやるよっ、歩くからっ」  凛太郎はさっさと自転車を降り、歩きだそうとした。その腕を片手で凛太郎の自転車を支えながら修一が掴む。
「だから、ちょっと待てって。頼むから話聞いてくれよ。な」
 赤い目でじっと上目遣いに睨んでいる凛太郎に、修一が懇願した。凛太郎は何も言わず、取り敢えず立ち止まっている。修一は片手で器用に自転車を支えながらスタンドを下ろした。そして凛太郎の腕を掴んだまま、作業棟の影へ連れて行った。
「腕、痛いんだけど……」
 凛太郎は修一を睨みながら言った。
「あ、悪い」
 修一は素直に謝り、掴んだ腕を放した。
「えっと、な。進路の事言ってなかったのは悪かったよ。まだ先の話だと思ってたし、これからどうなるかなんて解らなかったから。ただな、ずっと一緒にいるって言ったのは嘘じゃないぞ。嫌なことみんな話してくれれば、俺でも何か役に立つって思ってるのも本当だし」
「……修ちゃん、酷いよ。僕がどんな事が嫌なのか知ってるじゃないか。いっつも見てて知ってるじゃないか。今だってこんな身体になってて、ほんとは学校だって嫌なのに、一人でいるのつらいのに、それだって知ってるのに、戻れるのかわかんないし、ずっとこのままかも知れないし、すごい不安なのに、一緒にいてくれるって、一人じゃないって、すごく心強かったのに、いないって……期待させといて……こんな風に落とすなんて……、迷惑なら最初から言ってよ……」
 修一は凛太郎がここまで自分を頼っていた事が解っていなかった。凛太郎が自分をどれ程大切に思っていたのか、初めて知った。この男の精神と女の身体を持ったか弱い親友が、愛おしくて堪らなくなった。
「リンタ、ごめんな。俺、解ってるつもりで解ってなかったんだな。つらいのに我慢してたのに解ってなくてごめんな。ほんとに一緒にいるから、守るから。信じてくれよ」
 凛太郎は首を振った。
「もう、わかんないよ、あっ?!」
 修一がいきなり凛太郎を抱きしめた。驚いた凛太郎は腕に力を入れ離れようとする。それに気づいたのか修一は腕に更に力を込めた。
「ちょっと、修ちゃん、痛いよ、離してよ」
「リンタ、約束する。いつもこうやって一緒にいる。守ってやる。例え信じてもらえなくても、こうしていくから。俺はお前の事す……」
 修一は「好き」とは言えなかった。今でも凛太郎の心には大きな負荷が掛かっているのに、「俺は女のお前が好き」と取られかねない言葉を出したら、余計に重しが圧し掛かると思った。
「……ごく大事な奴だって思ってるから。だから俺がそばにいるの許してくれよ」
 凛太郎は修一に抱きしめられ、これまで激高していた精神がすーっと落ち着いてくるのを感じた。押し付けられた修一の胸からトクトクと鼓動が聞こえる。その音が心地よく次第に身体の力も抜けていった。抱きしめられる感触も気持ちよく、このままずっとこうしていられたらいいな、そんな気にさえなっていた。しかしそれと同時に、胸の鼓動が大きくなり、自分の胸から放たれた心臓の響きが、修一のおなかに伝わってしまうのではないかと心配した。
「苦しいよ、離してよ……」
「いやだ、許してくれるまで離れない」
 きっぱり言い切る修一に、凛太郎はドキドキしてしまった。
「も、解ったから、一緒にいていいから、とにかく離してよ……」
 すっと修一の力が抜けた。凛太郎は修一から離れると一歩後ろに下がった。赤くなっているだろう顔を見せないように、真下を向いた。
 修一は改めて言った。
「何も言わなくて悪かった。俺もこれからちゃんと言うから。一緒にいるって約束する。リンタのきついときもそれが解るように。だから……」
「……もういいってば。僕の方こそごめん。なんか感情がコントロール出来なくて……。今だって」
 ドキドキしてる、と言う言葉は飲み込んだ。自分は男だから、と言っているのに男の修一に抱きしめられて胸が高鳴っている。そんな凛太郎からすれば許容出来ない事実を修一に悟られたくなかった。だからそれを誤魔化したかった。
「……修ちゃん、抱きしめながら髪の匂い嗅いでたろ?」
「えぇっ? いや、俺、そんなことしてねーよ。ほんと、絶対してないって」
 浅黒い肌を赤くしながら、しどろもどろになりながら修一は弁解した。その姿が凛太郎には妙にかわいらしく感じた。修一を見上げながら、涙を拭おうとポケットに手を入れハンカチを探す。
「ほら。これ使えよ」
 乱暴に畳まれ斜めに線が入ってしまっているハンカチを、修一が差し出した。
「ん、ありがと」
 涙を拭き終わると、凛太郎はそのまま自分のポケットに入れた。
「ちゃんと洗って返すから。修ちゃん、部活、時間大丈夫なの?」
「あ? いやまぁ、いいんだ。リンタの方が大事だからな」
「良くないよ。選考会出られなくなるよ。一緒にいてくれるのはいいけど、自分を犠牲にして欲しくないから。僕も八つ当たりしちゃって悪かったと思ってる。ごめんなさい。今は平気だから、ほら、早く行って」
 ぺこっと頭を下げてから、修一の胸を軽く押し出した。
「お前どうすんだ。一人で帰っちゃうのか?」
 ひどく心もとない、俺は後ろ髪を引かれてます、といった表情を見せる修一に、凛太郎は微笑みを返した。
「修ちゃんに送ってもらう。いいんでしょ? だから図書室に行ってるよ」
「おうっ。わかった。それじゃ後でな」
 これ以上ないだろうという笑みを浮かべ、修一はそのまま走っていった。凛太郎はその後ろ姿が作業棟の陰に隠れ、見えなくなるまで見送っていた。


(その2へ)


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