初日 クラスメイト(その2)


 修一は凛太郎と千鶴と別れ、教室で悶々としていた。
(リンタどうなったかな。退学ってことはないよな)
 男が女になる。こんな事は通常考えられない。体育会系の修一の頭でも学校側が凛太郎の扱いに苦慮するだろう事は想像出来た。しかしその後どうなるのか。転校を迫られる事も考えられた。
(せっかく知り合いに、じゃなくて付き合い始め、じゃなくて、ああ! なんだよ、やっぱ俺って変態か?! 変態なのか?)
 男の凛太郎ではなく、どうしても女の子な凛太郎のイメージが先行してしまう。修一はお気楽な頭を抱え込んだ。
(もう、何でもいいから学校一緒に行ければいいよな。早いとこどうなったんだか教えて欲しいよ、ったく)
 ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、着信履歴をチェックする。しかし連絡は何も無かった。
(あ〜リンタが最初から女だったらなぁ……。こんなに悩まんですんだかな。くそ〜)
 日毎に女の子の凛太郎の存在が心の中で大きくなっていた。男同士の親友であり続けたい想いと、一目惚れしてしまった女の子の凛太郎への恋心。そのジレンマに修一は次第に深みにはまっていった。今はまだ男同士の親友としての意識が強かったが、いつまでそう思い続けられるか自信は無かった。
(今はまだ何も言わないで、秘めたる想いに身を焦がしていよう)
 かっこいいな、俺、などと考えていたが、修一が凛太郎を女の子として見ていると二人にばれているとは思っても見なかった。

 * * * * * * * * *

 午後の授業開始前に、凛太郎を連れて千鶴の車は学校へ戻った。職員室へ行くと昼食を済ませた教員たちは午後の授業の準備をしていた。
「あ、山口さん、お戻りになりましたね」
 谷山が凛太郎と千鶴の所へやってきた。
「一週間後には制服が出来ますので。それまではジャージでよろしくお願いいたします」
 何がよろしくなのか凛太郎は理解に苦しんだが、当たり障りのない挨拶とはこういうものだと納得はした。
 谷山は凛太郎に視線を移し、ゆっくりと話し始めた。
「山口君、朝のHRで一応クラスのみんなには伝えてあるの。取りあえず午後の授業が始まる時に改めて紹介するから。心配しなくても大丈夫だから」
(何が大丈夫だっていうんだろ。それって僕が判断する事だよ)
 先ほど感じた谷山の頼りなさからか、どうしても反発してしまう凛太郎だった。多少ぶすっとした表情を見せてしまった。
「凛太郎、一旦戻ってようか? それとも授業終わるまでお母さん車で待ってようか」
 千鶴が少し心配そうな顔をしていた。
「……もう戻ってていいよ。大丈夫。帰りは修ちゃんと一緒に帰ると思うから迎えに来ないでもいいよ。心配しないで」
 しばし考えを巡らした凛太郎は、はっきりとした口調で言った。
「そう? じゃぁお母さん戻ってるわね。先生、よろしくお願いいたします」
「あ、はい、解りました。凛太郎君はお預かりいたします」
 千鶴は谷山にお辞儀し玄関へ去って行った。
「さて、そろそろ時間だし、教室へ行きましょうか」
 谷山は凛太郎に顔を向け、促すように言った。凛太郎は「はい」と小さく返事をし、谷山と教室へ向かって行った。

 * * * * * * * * *

 凛太郎のクラスは1年2組だった。第一教室棟の左手昇降口から上がると手前から二番目の教室だ。修一のクラスは隣の3組だった。今日は職員室からの移動になったため、凛太郎と谷山は右昇降口を通り1年5組側からクラスへ移動した。
 まだ昼休みだったため、何人かの生徒は廊下で立ち話をしている。凛太郎は来賓用のスリッパをぺたぺたと音をさせながら、長身の谷山の後を付いて行った。
「おい、あれそうじゃね?」
「……モロッコいったんか」
「えー、ほんとにぃ?」
「完璧に女じゃん」
「なんかかわいいよねー」
 廊下の生徒達は凛太郎の姿を認めると、声をひそめて話をしていた。ちらちら見ている者、まじまじと目で追いかける者、教室に入りわざわざ人を呼んで見に出てくる者。普段人に注目されない凛太郎は、恥ずかしさと緊張で心臓がバクバクと飛び出そうな感じがし、生徒の視線に押しつぶされそうだった。俯きたくなる弱い心に自らカツを入れ、正面を、谷山の背中を見ながら歩いて行った。
 3組まで来ると開いた扉から修一の姿が確認できた。机に突っ伏して寝ていたが。
(修ちゃん、全然僕の事心配して無いじゃん。結構騒ぎになってるのに)
 周囲のざわめきに気が付き、修一が出てくるかと期待していた凛太郎だったが、全く余裕で寝ている修一に軽い失望を覚えた。しかし考えてみると非常に修一らしくもあるのだ。お気楽で物事を深刻に捉えすぎず、周りに左右されない、これが凛太郎が好きな修一だったのだから。
 2組の生徒は廊下に出ていなかった。教室内はざわざわとしていたが扉も開いていない。凛太郎は、恐らく午後の授業前に紹介するから教室から出るな、とでも言われたのだろうと思った。昼休みに体育館でバスケをするクラスメイトもいたから、凛太郎の件だけで休みを有効利用できなかった連中は、凛太郎にいい顔をしないと想像できた。
 谷山が無言で教室のドアに手を掛けた。凛太郎は呼吸が荒くなり心拍数も飛び上がった。
(……ついに、来ちゃったな)
 緊張から喉がからからになっていた。ゴクッと唾を飲み込もうとしたが、唾自体が出ていない。自分の姿がクラスメイトにどう映るのか、今更ながらに心配になっていた。
 谷山は勢い良く扉を開け放った。クラスメイトに緊張が走り、無駄話を止め扉に集中しているのが谷山越しに感じられた。その雰囲気に気圧され凛太郎の身体は震えが走った。
 そのまま谷山は教壇まで歩いていってしまう。凛太郎は一歩が踏み出せず廊下に残ってしまった。
「みんな朝話した通り山口君が……?! 山口君、入ってらっしゃい」
 凛太郎が一緒に入って来ていないまましゃべり始めた谷山は、生徒の視線が教室の入り口に集中している事に気づき慌てて凛太郎を呼んだ。
 極度の緊張から少し青い顔をした凛太郎は、軽く室内を見回すと、笑ってしまっている膝を無理やり動かし、パタパタとスリッパを響かせて歩き出した。少し俯きながら谷山の姿を見る事で、クラスメイトの方には目を動かさないようにした。
 しかしクラスメイトの視線が自分をじろじろと見つめているのが解り、視線が身体を突き抜け心に突き刺さるようで痛かった。男子の視線は凛太郎の胸や腰をじっとりと見つめ、女子は頭のてっぺんからつま先まで視線を動かしているようだった。
 教壇に上がった。目を前に向けようとするが向けられない。近くにいるはずの谷山の声が少し離れた所にいるように聞こえた。
「えー、ちょっとだけ感じが変わりましたが、山口君です。休み前と同じように接してあげてね。さ、山口君」
 谷山は凛太郎に発言を求めているようだった。
(こう言う時に何言えばいいって言うんだろ。とっとと席に着かせてくれればいいのに……)
 元々引っ込み思案だった凛太郎なのだから、人前に出て話をするのは苦手だった。まして今の状況は針のムシロ状態だった。出ない唾を飲み込み息を吸った。
「あ、あの、山口です。これからもお願いします……」
 緊張から青かった顔色は、前に出て話をしなければならないという恥ずかしさに紅潮し始めていた。
 クラスメイトの前には、少し俯き少し上目遣いでクラスを見渡し、震えているけれど透き通った声で話す少女がそこにいた。
「山口君てあんなに可愛かったっけ?」
「えー、なんかすごくいいわぁ」
「……惚れた……」
「山口ってあの山口なんだよな?」
「やべーよ、転びそうだよ」
 なぜか重苦しかった雰囲気が、凛太郎にとってはあまり良い意味ではなかったけれど、柔らかい空気になった。
(ど、どうこうこと? なんか考えてたのと違うな……)
 好奇の目自体には変わりないだろうけれど、みんなの声を聞いていると自分を気持ち悪い、変な生物のように言ってはいない。もっと否定されるかと思っていた凛太郎は、この雰囲気に拍子抜けしていた。男子の多くが女の子として見ているのが解る視線を送っているのは理解できた。修一にしてもそうだったのだから。ただ女子の一部にも似たような視線を浴びせてくる生徒がいた事に、変な気持ちになった。
「はいはい、私語はそのぐらいにして。山口君、席について。午後の受け持ちの先生がもう来るから、そのまま静かに待っているように。じゃミニHR終わり」
 凛太郎がスリッパを響かせながら席に着く間に、谷山はさっさと教室から出て行ってしまった。谷山が出て行くと直ぐさまクラスメイトが凛太郎の席に集まって来た。
「山口、山口、一体どうなってんだよ? 性転換じゃないだろ?」
「うわー、すっげーなんか女の山口っていいよ、ファンになっていいか?」
「見て、山口君の肌きれーい。まっしろだよ」
「そのおっぱい本物か? 揉ませてくれー」
「髪延びた? さらさらでうらやましぃなぁ」
 かつてこれ程注目もされた事が無かった凛太郎は戸惑いを隠せなかった。
「や、あの、どうなってって、自分でもわかんなくて。手術した訳じゃ、あ、ちょっと変なとこ触んないでよ、くすぐったいよ。な、なんで手握るの? 僕のファンになってどうすんの、男だよ。胸、本物だけど、揉むのは勘弁、て駄目だってば」
 男子生徒の中にはやたらと触ってくる輩もいたし、説明を求めるものもいた。女子の中には髪に触るものや手を握ってくるものまでいた。
「いやーん、すっごいすべすべの肌だよ、山口君の。爪もかわいい」
「なんだよ、手術じゃなかったらなんだよ」
「山口……かわいい……」
「ファンて言ったらファンだろ」
「これで男って反則よねー」
「いや、女だろどう見ても」
 一々返答するのが困難になっている状況に、凛太郎は次第と平静を取り戻し、同時に冷めて来た。
(今まで話した事も無かった子も来てる。なんで? 肌のせい? 女の子の身体のせい? 男の僕には興味なくて、こうなったら掌返したように来るって、自分達は変だと思わない訳?)
 凛太郎は急に、気持ち悪がるより嫌な状況になっていると思った。以前想像した最も嫌な展開だった。みんなは凛太郎に興味がある訳では無い。ただ男だったのが女の子に変わった変な奴、珍しい動物を見ているんだと。自分と言う人間を見ている訳ではないと。おまけに男子の視線は女の子を見る目そのものだったし、女子の馴れ馴れしさは同性に対するそれと同様に映った。凛太郎自身を見て、凛太郎自身の存在を認めてくれている訳では無かった。
「なぁ一つだけ教えてくれ」
 クラスで発言力の強い阿部が、凛太郎の机に両手をつき顔を突き出して聞いてくる。
「……なにを?」
 外交的で話も面白く、人の輪のいつも中心にいる阿部は凛太郎とは正反対の性格だった。ただ似たタイプの修一と違う点は、修一にある素朴さが阿部には無く、可愛げもない、常に自分のいいように立ち回る計算高い所だった。それ故に凛太郎は阿部があまり好きでは無かった。
「全部、女なのか? 下もか?」
(質問二つだよ。阿部君)
「……女の子だよ、基本的に身体は。全部……」
 男子生徒に大きなどよめきが起こった。
「うおお〜、羨ましい」
「どうなってんだ、一体どういう風なんだ、教えてくれよお」
「見せてくれ〜」
 女子は「イヤらしい〜」とばかり冷ややかな目でそれを見ていた。
「どうなってるかなんて教えないし、見せないし。大体僕は男だって知ってるでしょ」
 凛太郎がそう言うと、男子のほとんどが「けち」と言わんばかりにじとーっと凛太郎の顔を見ていた。なぜそんな風な目で見られないといけないのか。誰でも身体的な特徴を人に教えたいとは思わない。ましてそれが性的な部位であれば尚更な事で、誰も凛太郎を責める権利などない。男子生徒が自分達のモノのサイズを教えるとは、凛太郎には到底思えなかった。
 そうこうしている内に教室の扉が開いた。
「お前等、もう授業だぞ。いつまでも戯れないで、席に着け」
 現国の森尾が入ってくるなり、凛太郎をちらっと見ながら言った。
 正直行って、凛太郎は助かったと思った。これ以上女の子として見られたくなかったし、下らない話に返答する気力も無かった。以前の自分の存在を否定されるような話にはついて行けなかった。
「あ、山口」
「はい?」
「お前今日の午前中受けてない授業あるだろ。夕方から補習だからな。先生たちもわざわざお前の為に残ってやるんだから感謝しろ」
 居丈高に森尾が言った。確かに凛太郎の個人的な理由で授業を受けず、それを補習してもらえるのは助かると思えたが、クラスのみんなの前で言う事はないと思っていた。
「はい……。すみません」
 凛太郎は嫌なことなんてこれまでもあったしこれからも起こるし、落ち込んで居られない、そう考えながらかばんから教科書とノート、ペンケースを出した。

 * * * * * * * * *

 午後の授業は滞り無く終わった。休み時間中は、やはり凛太郎の周りにクラスメイトが集まって来たが、凛太郎も当たり障りのない、適当な受け答えをする事に終始した。まじめに受け答えしていたら、凛太郎自身が凹んでしまうだけだったから。
 掃除も終わると、凛太郎は修一に会うため隣のクラスに行った。凛太郎が扉を開け室内を見渡すと修一がバッグを持ち席から立ち上がる所だった。
「修ちゃん」
 これまでと同様に凛太郎が廊下から声を掛けると、教室内にいた3組の生徒が入り口を見た。修一が顔を上げる。
 3組の生徒自体にはそれ程面識が無かったはずの凛太郎だったが、彼らはひそひそと凛太郎を見ながら話を始めていた。教師連中が話をしたにしても、直ぐに自分だと解るのは変だと思っていた。凛太郎は視線にいたたまれなくなり、視線を感じないように扉の陰に隠れた。しかしあまり効果は無かった。生徒は廊下にもいたのだから。
「女になった山口君、エッチな身体今度みせてぇ〜」
「!? ひゃっ。な、なにすんだ!」
 どこのクラスの生徒達か解らなかったが、二人の生徒が後ろから話しかけるなり凛太郎のお尻を触って通り過ぎていった。凛太郎はぞわっとした感覚に身を硬直させ、通り過ぎた生徒に文句を言った。廊下にいた生徒はすくすく笑いながら、成り行きを見守っている。
「リンタ、どうした? なんかあったか?」
 丁度お尻を触っていった生徒が凛太郎に向き直った時、修一が教室から出てきた。
「あ、やべ、剣士の登場だ」
 修一がゆっくり睨付けると、二人はいそいそとその場を離れて行った。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。お尻触られただけだし」
「な、んだってぇ! くっそ、あいつらぁ」
 凛太郎は自分が触られたのに、修一が自分の事のように怒ったことが快く感じた。昼休みには寝ていたけれど、やはり修一は自分の事を気に掛けてくれていると、改めて実感したからだった。
「いいじゃない、僕が触られたんだし。そんなに怒らないでいいよ」
「いやしかしだな、あいつら俺の、じゃなくてリンタの尻をぉ」
(……僕のお尻は修ちゃんのじゃないよ)
「もう。あ、そうだ。これから補習があるんだ。だから」
「おう、じゃ俺部活行って来るわ。どっちが早く終わっても図書館行ってる事にしようか」
 図書館は、これまでも凛太郎と修一が待ち合わせに使っていた。元々凛太郎が読書好きだったことも理由の一つだった。
「あと、お母さん帰ってもらったから、帰り歩きだよ。ごめん、勝手に決めちゃって」
「え? 帰り歩きか。そうか……」
 修一は内心にんまりしていた。女の子の凛太郎と一緒に帰る。これはいい雰囲気になれるかも知れない。修一は瞬間的に妄想を繰り広げていた。
(若い男女が二人きりで……。夕焼けの中でいい雰囲気になれたりして。これはいいんじゃないか?)
「修ちゃん? 僕もう行かないと」
「あ? ああ、悪い、俺も行かなくちゃ」
 二人は2組の前まで少し歩くと、そこで別れた。

 * * * * * * * * *

 補習が終わったのは五時を過ぎた頃だった。
 図書室は六時には閉まってしまうため、凛太郎は急いでかばんを持ち教室棟左側階段を使い二階へと上がった。本好きの凛太郎はほぼ毎日図書室を利用している。課題や予習をこなす為だけでなく、多くの本から今まで無かった知識を得られる事が好きだった。そして誰に気兼ねするでもなく、一人になれる場所だった。ただ一人になるなら、家で過ごす事も考えられたし市立図書館を利用するなどの方法もあるはずだった。しかしそれをしようとしなかったのは、凛太郎が人恋しさを感じていた事と、修一と一緒にいる時間が出来るからだった。ただ、凛太郎自身はこの事に気づいていない。
 凛太郎の1年2組から図書室へ行くルートは二つ。一つは1年の教室が並ぶ一階を5組方面へ向かい、階段を上がる方法。もう一つが今凛太郎が使っている方法だった。あまり下級生が上級生の階へ行くことは無かったから、今回の凛太郎のルートはレアケースだった。
(1年は全部僕の事知ってるみたいだし……、お尻触られんのもやだし、なるべく遠回りしよっかな)
 当初凛太郎の想像では、自分のクラスメイトからの視線だけに耐えればいいと思っていた。仮に1年生全てが知るにしても時間がかかり、凛太郎自体の心構えや相手への対応の準備期間が出来ると考えていた。しかし現実は厳しかった。最初から1年生全員の好奇の目に耐えなければならない。周り中敵だらけのような状態では心が安まる暇がないように感じていた。1年生は既に全員が凛太郎の事を、凛太郎が男から可愛い女の子に変わってしまった事を知っている。放課後で人が少ないからと言って、今日はもう通り抜ける気にならなかった。だから、恐らく凛太郎の事など知らない上級生の階を通ることにした。
 二階へ上がり廊下へ出た。2年生の教室が並ぶ二階は所々で話声が聞こえている。恐らく居残って話に夢中になっているのだろう。1年生の雰囲気とは異なる空気に包まれた廊下を、パタパタとスリッパを響かせながら早足で通って行った。丁度半分まで来た所で2年4組の扉が開いた。
「!」
 突然の事で凛太郎の足が止まってしまう。教室の中からは女子生徒が二人と男子生徒が一人出てきた。四人はしばし見つめ合っていたが、凛太郎は小さな声で「失礼します」と言い、会釈しながら早足でその場を通り過ぎた。
「あれー? スリッパ? 転校生かな?」
「違うんじゃね? うちのジャージ来てるし」
「あ、もしかして例の女の子になっちゃった子じゃないの」
「そう言えばしばらくジャージ着せて区別しとくって言ってたよね」
「へぇ〜、あの子なんだ。レアキャラだ」
 凛太郎は背後から聞こえる会話に、愕然とした。
(どうして2年生が?! みんな知ってるってこと? 全校生徒が? 僕を? 僕が僕の身体がどうなってるかを? このジャージってそれが解るように区別するため? 区別ってなんだよっ!? 僕は同じ学校の生徒で、みんなと同じ人間じゃないの? 女の子になっちゃったから? これだって僕のせいじゃないよ!)
 今日の朝からの出来事で、心に溜まっていたものが一気に思考として頭に流れこんできた。
 凛太郎は正面から近づく図書室へ入らず、その右にあるトイレに駆け込んでいた。男子トイレの方に。個室へ入る。ドアを背に立っているとぼろぼろと涙が溢れてしまった。
(いくらなんでも、酷すぎるよ……。誰も彼も知ってるなんて、逃げ場所ないじゃないか……。おまけに朝からずっとジャージ着てれば僕だって解っちゃうなんて……酷いよ……。あ、そうだ制服を……)
 あれ程着るのを躊躇った女子の制服が、他の生徒と区別されない為にも早く出来上がって欲しい、と一瞬願っていた。制服さえ着ていれば少なくとも「女の子になった男」とは見られないのだから。けれども、同時に自分から女の子の服が着たいと願ってしまった、その自分の心理変化に空恐ろしさを感じてしまった。
 凛太郎は自分の考えを頭から追い出すように二三度大きく首を振った。大粒の綺麗な涙がトイレの個室内に飛び散る。
(違う、制服は緊急避難なんだ。木を隠すなら森の中って言うぐらいだから、女の子隠すには女の子の中なんだ。………………? ……! 違う違う、僕は男だけど女の子だから仕方ないんだ。そうしないと学校じゃ心が安まらないよ……。修ちゃんの所行く位しか……。あ、修ちゃん、もう来てるかな)
 女性化してから今日まで、凛太郎には相当なストレスがあった。いつ切れてもおかしくない緊張の糸は、ピンと張ったまま。だからそんな精神状態では理性的な考察も、理論的な展開も出来なかった。凛太郎の頭は、ただただ混乱していた。
 ジャージの袖でごしごしと涙の痕を拭うと、個室から出てトイレの前で修一を待つことにした。仮に修一が図書室内にいたとしてもあと数十分後には会える。わざわざネタを提供する為に中に入る事はしなかった。

 * * * * * * * * *

 十分近くトイレの前で佇んでいると、修一が階段を駆け上がってきた。トイレの前にいる凛太郎の姿を認めると修一は笑顔を見せた。ニヤッという嫌らしい顔でもなければ、へらへらした笑いでもない。二カッと白い歯を見せとても爽やかな笑顔だった。いつも修一が見せる笑顔だったのに、今日に限っては、凛太郎には心が洗われるような笑顔に思えた。
「悪い、待った?」
「ううん、今さっき来たばっか」
 修一は凛太郎の目が赤いことに気づいた。頬にも涙の跡が残っているようだ。
「リンタ、なんかあったら必ず俺に言えよな。俺が必ず守ってやるから」
 傍から聞いていたら赤面しそうなセリフだったが、修一は大真面目だった。大事な友人である凛太郎、一目惚れの対象としての凛太郎。そのどちらをも守りたいというのは、修一の本心だった。
「……うん、ありがと。助けが欲しい時はそういうよ」
 凛太郎は修一を見上げながら、花がほころんだような笑顔を見せた。修一の恥ずかしいくらいの心遣いが嬉しかったから。
 修一はと言えばその笑顔を見て暴れる野生を理性が何とか押さえ込んでいた。
(うぅわああ〜、かわいいぃ〜。ちくしょう今直ぐ抱きしめてぇっ。くぅ〜)
「そ、そんじゃ帰ろうぜ」
 修一は急に顔を背け、照れを隠しながら言った。
「うん、遅くなっちゃうもんね」
 修一の右隣に凛太郎が歩く。階段を降りて1年生の教室を五組側から昇降口目指す段になり修一が言った。
「リンタ、お前こっち」
 修一が軽く凛太郎の左腕を掴み、自分の左側へ誘導した。教室、修一、凛太郎、窓の配置となった。教室から誰か出てきても、修一が凛太郎をカバー出来る位置についた。
(あ、修ちゃん、気を使ってくれたんだ。やっぱり優しいな)
「修ちゃん、ありがと」
 凛太郎は礼を言うのが少し気恥ずかしくて小声で言った。
「ん? なんか言ったか?」
 修一は聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのか、凛太郎には解らなかった。
 学校を出るまで遠めに生徒が見えたが、凛太郎に気づいた者はいないようだった。そしてそこから家に着くまでは、二人だけの時間になった。


(初日ーその3へ)

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